カナダ・トロントで練習を公開し、平昌五輪シーズンのフリープログラムを発表した羽生結弦のニュース動画です。
フィギュアスケート14年ソチ五輪金メダリスト羽生結弦(22=ANA)の今季フリープログラムが、15-16年シーズン「SEIMEI」の再演となることが8日(日本時間9日)、カナダ・トロントで行われた公開練習で発表された。既にアイスショーで披露している新ショートプログラム(SP)も14-15、15-16年に使用した「バラード第1番」の再演。五輪でSP、フリーともに過去のプログラムを滑るのは極めて異例。世界最高得点を出した得意の曲で、66年ぶりとなる連覇に挑む。
平安時代の「陰陽師(おんみょうじ)」安倍晴明をテーマとした「SEIMEI」は、自ら選んだ思い入れのあるプログラムだ。狩衣(かりぎぬ)をイメージした衣装に加え、振り付けにも能や狂言を研究して日本の伝統を取り入れた。過去に日本人トップスケーターらも和風プログラムに挑んできたが、国際舞台ではなかなか評価されにくかった。だが、羽生は15年のNHK杯で当時の世界最高得点となる216・07点をマーク。続くグランプリ(GP)ファイナルではさらに219・48点と記録を塗り替え、世界に「和」を認めさせた。
2季前は4回転ジャンプが2種類3本だったが、昨季4回転ループという新たな武器を加え、フリーでは3種類4本が出来るようになった。「SEIMEI」で4回転ジャンプ4本を成功させれば、自ずと技術点は引き上がる。
見慣れたプログラムという懸念について、羽生を指導するブライアン・オーサーコーチ(55)は「それはない」と否定した。「誰が見ても、いいなぁと思うプログラムだし、振り付けも新しくなっている。ただ、レベルを引き上げる必要はある」。2度目の「SEIMEI」をいかに進化させるか。五輪に向けて、新たな挑戦が始まる。
(2017年8月9日掲載 日刊スポーツ「羽生結弦、今季フリーは「SEIMEI」再演に決定」より)
“羽生結弦 平昌五輪シーズンFSプログラム発表「陰陽師」 (2017/8/9-10)” への450件のコメント
今時間がないので取り急ぎですが。
桔梗さん、PCSは「芸術点」ではない、というのはこれまでにもよく言われていることだと思います。
たしかに昔はartistic impressionという評価項目がありましたよね。
現在のISUが「芸術性」をどう捉えているかというのは私も正確にはわかりませんが、少なくとも、ここでの議論においては、月見そばさんも「芸術性」を語る時にPCSとははっきり分けて仰っていたと思いますよ。
これはもしかして300コメントいけるかもと密かに思っていたら、この時期に300コメントに達成する熱いコメント欄になりましたね。
dark eyes様のロシア記事のご紹介は嬉しかったです。残念ながらガチンスキー選手は練習の成果を試合に生かすことはかなわなかったようですね。羽生選手以外に5種類の4回転ジャンプを目指すという更なる当時の記事の発掘を今後も期待しています。
Wikipediaで分かりますが、その当時は5種類の4回転ジャンプというより、ムロズさんの4Lzにも刺激を受けてか、未だに成功していない残り2つのジャンプを目指す動きが目立ったようです。しかし、4Lz はISUの公式試合では成功したものをほとんど披露することができず、金選手まで長い沈黙があったわけですね。このように新しいジャンプは、練習して直ぐに試合にとはならないので、金選手が 4Lz を跳んだから直ぐに残りの2つということではなく、だいぶ前から各自練習していたと考えるのが自然なようです。
もう一つ、dark eyes様がランビエールさんにアドバイスを求めた話に言及されていますが、これは 4Lo ではなく 4T だったように思っていましたがどうでしょうか。
さて、以前にコメントしたとおり、FS の総基礎点に注目して、ISUの主催するGPS7試合と3つの選手権に対して、成功・不成功にかかわらず降順に並べるリストを作ってあるので、それに関してコメントします。
単純に技術点でリストを作ると、各要素の積み重ねとなる演技の難易度と演技の成功・不成功が分かりにくいので、 難易度を示すために GOE に左右されない総基礎点で並べて、それに総GOEを加えたリストにすれば、その演技が成功といえるかどうかも判断できるという仮定に基づいています。とりあえず成功・不成功の判断は、 GOE が 8.0 を越えたかどうかで行います。
総基礎点80点以上のFSに絞って、
成功・不成功にかかわらず最高基礎点の演技を行った選手を (A)
最も高い基礎点で成功した演技を行った選手を (B)
A) と B) が同一選手なら (AB)
として、リストから抜粋してみます。この間ジャンプの基礎点が変更になっているようですが、総点数に比べて少ないので無視します。
2010-2011
82.83 + 13.61 チャン選手 (AB) World2011
2011-2012
83.75 + 3.84 チャン選手 (A) GPF2011
81.54 + 14.29 チャン選手 (B) 4CC2012
2012-2013
86.48 + 9.45 フェルナンデス選手 (AB) GPF2012
83.79 + 5.14 羽生選手 ( ) GPJPN2012
2013-2014
91.51 + -1.04 アーロン選手 (A) GPUSA2013
90.12 + 9.81 羽生選手 (B) World2014
2014-2015
88.04 + 15.26 羽生選手 (AB) GPF2014
2015-2016
103.10 + 1.89 金選手 (A) World2016
101.20 + 9.46 金選手 (B) 4CC2016
95.79 + 23.08 羽生選手 ( ) GPJPN2015
2016-2017
112.87 + -2.26 チェン選手 (A) World2017
106.48 + 9.00 チェン選手 (B) 4CC2017
103.43 + 22.69 羽生選手 ( ) World2017
(AB)となった選手は、全員ワールドチャンピオンとなっているのが興味深いですね。男子フィギュアスケートは、バンクーバー五輪以降総基礎点を増や方向に進んでいるのは間違いないでしょう。総基礎点は上げれば上げるほど有利そうですが、そのぶん不安定さが増大するので最大値はある点数に収斂するはずと仮定すれば、このリストはシーズン毎に収斂した値を示しており、この増加する様が「進化」と呼ばれているもののようです。
ここ2年は金選手とチェン選手の活躍が目立つ中、キャリアの長い羽生選手が順調に基礎点を増やしその流れに乗っているのが良くわかります。若手は羽生選手に比べて5点以上総基礎点を増やしたいところですが、羽生選手も総基礎点を増やし続けているので難しいところですね。
301.dark eyes さん
(299.のコメントは月見そばさんのコメントに対して書いてものではありません。)
>PCSは「芸術点」ではない、というのはこれまでにもよく言われていることだと思います。
そうだと思います。しかしそれは厳密な意味で、本当に見ている人の多くに伝わっているのでしょうか?
純粋技術点であるTESと比較して、PCSをプログラムの「芸術性」を測る指標、ととらえている人は多いことがいろいろなコメントなどを見るとわかりますよね。
芸術性を測るものでないなら、一体何なのだ?ということになると思います。文字通りにとらえるなら、「プログラムの構成要素の点数」ということですが、それならTESの項目・・技術要素だってプログラムの構成要素であることに変わりはないはず。
なぜわざわざ分けているのか、と考えた時に、PCSにある項目を眺めてみると、やはりTESの純粋技術、に対して「芸術性」につながるものを測っている、ということは考えられないことでしょうか?
月見そばさんは、224.のコメントでフィギュアにおけるPCSと芸術は違う、ということを仰っていて、羽生選手のSEIMEIなどは、PCSが高くても「芸術」ではなく、その後のコメントで「芸術」と感じるのは、高橋、鈴木、ブラウン選手の各作品と仰っていらっしゃいます。
羽生選手もそれらの選手も、同じ条件下(マイナーチェンジはあっても同じルールの下で同じ「選手」として)で演技をしています。
月見そばさんは、わざわざTESと分けている、PCSというのは、全体的に一体何の評価をしているものとお考えなのでしょうか?
また、dark eyes さんは、PCSというものを全体的に何を評価しているもの、とお考えでしょうか?
私自身は299.で述べたように、現在のPCSの項目は Interpretation の項目などを除いては、へんな表現ではありますが、「芸術(作成)技術点」・・つまり、私自身が考える「芸術作品」に不可欠と考えられる(一条件である)卓越した技術(技術の卓越性)の部分(つまり芸術的側面から考えた技術)をTES(スケートの純粋技術)と共に測っているようにも思えてしまうのですが。
それにしても、何ともわかりにくいところではあります。
303.で述べたようなことを個人的には感じているので、よくわからない部分はあるものの、全体的に今の競技フィギュアは、採点において全体的に「技術」に高く比重が置かれているように思います。(これもすでに言っている人は多いと思いますが。)
それは「スポーツ」であることを考えれば、私自身は納得は行きます。
ただ、技術の完成度によってはやはり「芸術性」は大きく期待できるようには思うのですよね。
その上で、では芸術とか芸術性とか、って何だろう?
人間にとって「芸術」とは何の意味があるのだろう?・・などということを考えてしまうわけですが、295.magrittemari さん、~まんまるさん、あめんぼうさんなどのご意見はそれぞれ、私にとってはとても面白く、興味深い部分がたくさんあります。ご意見が伺えてとても嬉しいです。
302.えるさんのコメント・・いつもありがとうございます。
技術点の部分で、2013-14以降の羽生選手の基礎点に対してGOEの稼ぎ方のすごいこと!技術要素の完成度の上げ方が尋常じゃない、って感じですね。かつてのチャン選手をも上回っていて。
基礎点が上がるとGOEは稼ぎにくくなる・・のようなこれまで言われていたようなことを彼はくつがえしていることが数字ではっきりわかる、ということですよね?
一方、金選手もチェン選手も、えるさんが仰る「成功演技」(GOE8.0以上)をすでに果たしてはいる・・今季はさらにGOEを上げてくるかもしれません。
羽生選手、どこまで4Lzなしでも勝てるか・・やはりまずはクオリティを維持、ないしはさらに上げて、完成度狙いでしょうか?
また、えるさんのリストに登場していない宇野選手・・リストにないけれど、昨季の安定した試合結果(順位)、ワールド2位。怖いですね~!
もう随分コメが進みましたが、292dark eyes さんの全日本の高橋大輔さんの「道化師」の推進力に怒りの感情があったというコメントに興味を持ちました。
高橋さんの場合、ずっと美意識が闘争心を上回る感じがしてたのですが、若い羽生君という存在によって、勝ちたいという気持ちとともに自分に対する怒りという感情が開拓され、道化師と一体化、より深い表現になったのではと推測します。
あのときプロが「道化師」でなかったら?
ビートルズメドレーなら、あのような表現に至らなかったのは確実で、たまたまあのとき様々な条件が重なって、奇跡のような演技がなされたのだと思うとフィギュアスケートっておもしろいですね。
バンクバー後の高橋さん、ソチ後の浅田さん、町田さんなど、いわゆるオマケのような競技生活の中で、魅せてくれた演技の数々は、極めて芸術性の高いものだと感じています。
まだ、先の話ですが、鉄壁の技術を持つ羽生君が自己とじっくり向き合って、芸術性を深めるのは、ピョンチャン後のことかな?とひそかに楽しみにしています。
>>何をもって芸術といえるプログラムとするのか・・はちょっと分からないのですが、いや〜〜皆さん、深いですね。ちょっとコメを読ませて頂きましたが、頭がこんがらがってしまいました(^^;。。私がちょっと思ったのは、、プログラムに映画音楽を選んだ場合は、勿論映画によりますが、芸術性というよりも、
映画の世界をスケートでどう表現していくのかということに注目しちゃいます。
ボーヤン選手のスパイダーマンは楽しく、ちょっと懐かしい鈴木明子さんのキルビルとかカッコいい〜と思って観ていました。
SEIMEIの場合は平安時代の雅やかな世界や陰陽師の妖しい?雰囲気の安倍晴明とか、それとも魔物を撃退する鬼気迫る晴明を表現するのか・・どんな振り付けで羽生選手が演じるのか、今からとても楽しみにしています。
個人的には・・今、22歳(23歳になるね)だからできる技術を駆使して自分が一番滑りたいプロで五輪2連覇に挑戦したらいいと思います。
なんだかんだでまだ22歳は若いので表現面も見る人によってはまだまだと思う人もいるでしょう。
男子の場合20代半ばくらいになると演技に深みがでてくると感じますがいかがでしょう。
ちょっと書いてみましたがなんか視点がズレたかも・・スル〜でいいです。
こんばんは。
明日も朝から用があり、早く寝なくちゃいけないのでちゃんとした答えにはならないと思いますが、とりあえず。
PCSについては色々曖昧すぎて私もよくわからないというのが正直なところです。
TESでは計れない部分を計っている、という風に私は解釈しています。
TESでは技術の要素(ジャンプ、スピン、ステップ等定められた要素)の部分だけを切り取って特化して評価しているので、それでは計れない部分が沢山ある。
PCSではそういう部分を評価するのだろうと。PCSの評価項目に書かれている通り、全体的な滑りとか、要素間の繫ぎ、身のこなし、プログラムのバランス、音楽の表現等々。
フィギュアを見始めた頃、旧採点時代にはFPではtechnical merit とartistic impressionに分けて採点していて、後にartistic impressionがpresentationに変わったように思いますが、いつ変わったか等については記憶が曖昧です。
PCSになったのはソルトレイクをきっかけとして、今の新採点方式になった時でしたよね。
元々がartistic impressionなんて言われていた部分が変遷を経て、より厳密に細かい尺度に分けられたとはいえ、今のprogram components になったわけですから、そういう意味では「芸術性」を計る部分だという解釈もできるとは思います。
実際、その辺り、マスコミも一般の人の理解も解釈も非常に曖昧だとは思います。
こんな記事がありますが、野口さんも「芸術面を評価するため」という言い方をなさってますね。まあ、他に言い方がないというのもあるのかも。(でも桔梗さんも書かれている通り、今のISUのPCSの項目にはartとかartisticという言葉は用いられてないですよね?)
http://number.bunshun.jp/articles/-/802055
また、別のインタビュー(フィギュアスケート2012-2013シーズンガイド)でも、インタビュアーである野口さんはPCSを「芸術面の評価」という言い方をしているのに対して、答えるジャッジの岡部さんは「表現の評価」という言い方をしていました。
このインタではPCSはどのように評価されているか、どうすれば伸ばす事ができるか、について岡部さんがわかりやすく説明なさっていて、非常に参考になるのですが、長くてここでは書き写せないので、さらにちょっと古いですが、杉田さんのこんな記事を参考に載せておきます。
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO65539700Z10C14A1000000/?df=3
PCSのうち、いわゆる私達が一般に考えるところの「芸術性」と直接関係ありそうなのは、PEとCOとINでしょうか。
そして、私は個人的には、PCSが高い演技に必ずしも「芸術性」を感じられないものもあるし、またはその逆にPCSが低くても「芸術性」を感じる演技というのもあると思っているわけです。ここの議論では、そういうPCSとは違う「芸術性」について論じているのだという理解でした。
えるさん、ランビエールに4Loのアドバイスを求めたという話は
カッティング・エッジ2012に載ってたんですよ。
FaoIではじめは4Tについてアドバイスを求めたけど、跳んでみせたら、もう何も言わなくていいよねとランビに言われ、他のクワドは何が出来るの?と聞かれたので4Sはほぼ跳べるけど、あとはできない、と答えた。
そしたらランビが僕4Loなら跳べるよ、と言ったのでじゃあ、教えて!となったそうです。
教えてもらったら、降りる事はできなかったけれど回るようにはなったと。
その前に、ザアイスではリッポンの4Lzを真似して跳んでみたら、ちょっと感覚が摑めて回り始めた感じって言ってました(笑)
あああ、書き始めたら結局長くなってしまいました。
すみません、杉田さんの記事は岡部さんのインタより後でしたね。
おはようございます。
たびたびすみません。
コメント307の
フィギュアスケート2012-2013シーズンガイド
は
フィギュアスケート2013-2014シーズンガイド
の書き間違いです。
dark eyes様、ランビエールさんの詳しい話、ありがとうございました。それほど長い間練習してきた 4Lo で初認定となって本当に良かったですね。
桔梗様、芸術の話は面白いですね。おそらくフィギュアスケートの芸術性とは、直ぐには分からず、こちらのブログのコメント欄でいえば、ずっと後になってそれを読み返した時に確信するものなのかもしれませんね。芸術とは別の芸術を引き寄せる力があり、今までにもそのような事がこちらのブログでいくつも起こっていますから。
そして、9月。羽生選手の飽くなき挑戦を思い、この曲を。
https://youtu.be/Oo791tg0vhI
和訳されている方がいます。
https://blogs.yahoo.co.jp/rmnjr654/18375554.html
dark eyes さん、お忙しいところコメントありがとうございます。
天候も定まらず、暑さもまだ続くと思いますので、dark eyes さんも皆様もこれから長いオリンピックシーズンの各試合を見て楽しみながら、過ごして行きましょうね。
いろいろな資料のご紹介ありがとうございます。
いろいろ読んでも、本当にPCSについては、どう捉えてよいものかいまひとつ釈然としない部分は残ります。
dark eyes さんも曖昧すぎてよくおわかりにならない、とのお答・・。
>TESでは計れない部分を計っている
これは確かですよね。TES(技術点)だけではフィギュアは評価できませんよ、ということなのだと思います。
「プログラム」という言葉を使っているので、フィギュアのプログラムを「表現」のひとつの作品として見た場合の項目別の評価、ということなのでしょうが。
ISUのHPにある “Special Regulations & Technical Rules”
http://www.isu.org/en/home
(日本語版も、断片的にですが、日本スケート連盟のHPで見られます。)
こちら(PDF で長い~)をもう一度ざっと見てみましたが、やはり どこにも art とか artistic という語は使われていないようです。
Rule 504 の3.にPCSのことが書かれていて、定義(definition)も、書いてあることはあるのですが、5つの項目がただ並べられているだけで、「全体的に何を評価」しているのか、というのは言語化されておらず、これを定義というのかなあ・・なんて(笑)
まあ「その」「プログラムの構成要素」を評価している、ということはTESの方は、「どの」「プログラム」でやっても同じ評価なんですよ、ということなのでしょうかね?
フィギュアの採点の歴史の上でもいろいろな出来事(ペアにおけるごたごたなどもあったようですね)があり、評価法も「スポーツ」として万人にわかりやすい、より客観性重視の形に変わって来た、とは考えられるので、主観的で曖昧な部分を感じさせる art や artistic という語を「あえて」使わなくなった、とも考えられなくはないですよね。
ルールを作る方も、ただ単純に「どこの国に有利なように」なんていうことだけで変えられるわけでもないでしょうから、それなりの苦労があって、検討に検討を重ねて来たのでは、と私は思います。
フィギュアが他のスポーツとは異なる「特殊性」を持っていてそれがルールの曖昧さ(そうせざるを得ないような事情もあり)にも表れているのかもしれません。
一般人の目から見ると、SS(Skating Skills) や TR (Transitions・・つなぎ)はやはり技術的なことを評価しているようにしか見えず・・。
PE(Performance), CO( Compositoin), IN(Interpretation) あたりで何をして評価しているか、という項目を読んでも、「う~ん、曖昧」と感じると同時に、やはり「芸術性」につながるような項目も多いかな、とは私は感じてしまいます。
PEは、技術上のミスが重なれば、プロ全体の流れが途切れて作品全体が崩れてしまうと言えるでしょうから、TESでの出来(技術)に大きく左右されそうですし(このあたりはご紹介の杉田さんが指摘されてますね。そういうことからも、転倒や深刻なエラーに対して、今季のようなPCSと関連付けたルールに改正されたのでしょう)INは(よく読んでみたら)音楽と関連付けたやはり、技術的な要素も色濃いような気がします。
一方、PEのところに見られる、emotional (感情的な), intellectual (知的な)とか、individuality (個性)、personality (人格、性格?)とかいう語・・どうやって判断するのでしょう?客観的判断は無理でしょ?と感じてしまいます。(このあたりのことは以前、FSF さんと別スレでお話した記憶もあります。)
しかしながら、そのへんには、なんだか月見そばさんが仰っていた「心の在りよう」にやや通じるものもあるようにも思えますね。
まあ、ISU側が art/artistic という語を使っていないのですから、見ているほうは、PCSがTESとわざわざ分けられて、全体的にフィギュアの何を評価しているか、と考えるかは、いろいろな見解が出て来そうです。
しかし、昔の「芸術点」からの流れでPCSが出来上がった、と考えるなら、PCSを全く「芸術」または「芸術性」と切り離す、というのも私はやはり不自然な感じがしないでもないです。
(ホント、しつこくてすみませんが、連投です。)
えるさん、
>おそらくフィギュアスケートの芸術性とは、直ぐには分からず、こちらのブログのコメント欄でいえば、ずっと後になってそれを読み返した時に確信するものなのかもしれませんね。
そうなのかもしれませんね。
元々「芸術」とか「芸術性」とかいうもの自体が、簡単に「これ」と言えるようなものでもなく、未来永劫不動の定義が可能なもの、とも私には思えません。
でも、ここだけは変わらない、という根幹の部分はもちろん残っていくのだろうと思います。
学術的な定義について調べたり、本で読んでも、西洋においても、その定義は古い時代でも近現代でも時代によって、また国によっても変わってきているところは見られます。
芸術を語るに当たっては、やはり「美」に言及しているものは多いですが、カントなどは自然美も芸術美(人工美)も本質的には変わらない、というようなことも言っていたようです。
芸術の一条件として、「独創性」はやはり必要であろうと考えられ、結局どの時代も、それまでには予想もつかなかったような発想を形にする(それまでの芸術の定義からははみ出してしまうような作品を作る)人が出てきてしまうので、そういう人が「芸術」にも新風を吹き込んで、新しい流れを作って、芸術の定義そのものも変わってしまう、などということは歴史の中であったことだと思います。
いろいろな方のコメントを読ませていただくと、やはりどの方もその方の感じ方があり、芸術観も異なるように感じます。
また、231.あめんぼうさんのコメント・・
>パトリック選手が足元の技術が凄い選手って皆さん仰るから、凄い選手なんだ~って理解している・・。
> 立派な近代美術館に行って、縦線ばっかりとか、横線ばっかりの絵画見せられて、これが「芸術です」って言われてる感じがするんです。
こちらは「芸術」というものを考える上で、非常に面白いし、よくあることではないかな、と思いました。
つまり、その人独自の芸術観とか美しいと感じるものと、他者や社会によって決められた芸術観が違う、と感じることが人にはある、ということのように思います。
世の中一般で、「芸術」とか「芸術品」とか、というのは一体誰が決めているのでしょうね。
芸術の歴史を考えると、そこにはどこか「権威」というものも見え隠れしたりもするのですね。
上でちょっと出して、たぶんご存知の方も多いでしょうが、日本には「日本芸術院」という、美術、文芸、音楽、演劇などの分野の優れた芸術家を優遇、顕彰する国の機関があり、各国にも似たような、いわゆるart academy (目的はそれぞれ少しずつ異なることもあるでしょうが)のようなものが存在するようです。
そういう場所では、当然「芸術」の基準や定義があり、それが世の中一般の基準として、認知されていたりするものですよね。
そして人によっては、それと自分の感覚が合わない、ということもあると思います。
いろいろ調べていて面白いな、と思ったのは、芸術院と言っても、国によって扱う分野が微妙に違うんですね。
例えば、日本芸術院では「美術、文芸、音楽、演劇、舞踏」なのですが、フランスの芸術院にあたる Academie des Beaux-Arts では「美術、音楽、建築」、大韓民国芸術院では「「文学、美術、音楽、演劇、映画、舞踏」のように・・
フランスのその機関では、日本の著名な建築家なども会員に選ばれていますが、「建築」という本来実用的機能を備えたものに対して、単に「機能美」に終わらせずに「芸術」と捉えている、ということだと思います。
また「映画」は韓国では、ひとつの「芸術」とし社会的に認知されている、ということなのでしょう。(もしかしたら国家的戦略としての権威付けも裏にはあるかもしれない、ということを否定はできませんが)
ここで、306.つららさんのコメントが思い出されました。
ボーヤン選手のプログラム、斬新ですごく面白いですよね。個性的であの味は誰にも出せないと感じます。
なんというか、映画の世界をつかんでいるようで、彼独自のスパイダーマン、というのか。
私も大好きで、4LZはじめジャンプと共に昨季は観るのがとても楽しみでした。フリーの方も他の選手のものとはまた別物でしたね。
他にもチャップリンなどは、カテゴリーを越えて選手にも人気があり、映画音楽をプロに選ぶ選手、多いですね。
音楽面ではビートルズなども頻繁に選ばれています。プリンスも意外と多い。
映画はストーリーもあり、選手自身にも観ている方にもわかりやすいところはあるのかも。
ボーヤン選手のプログラムなどには、「芸術性」というのはどうなのでしょうか?
はなからああいうのは、芸術ではなくて、単なるエンターテインメント、と仰る方もいらっしゃるのではないかと思うのです。
でも、将来的には、それこそわかりませんね。芸術が作者→受け取る人という一方向のものでないとしたら、(技術を伴って)エンタメ性が芸術の一要素に絶対にならない、とは断言できないかも。映画などはまさに制作者の創造性の表現であると共に、人を楽しませる目的のエンタメ性があるものと思いますが、すでにそれを「芸術」とみなす考え方もある、ということですし。
今のISU自体がそのあたり(エンタメ性)をどう捉えているのか?
PCSが「フィギュアにおける」芸術性を評価しているものかどうか、はわかりませんが、もし仮にそうであるのだとしたら、やはりその基準に最大限適応して、PCSで高得点を出す選手のプロ、というのは、現在のフィギュアスケート界の基準や定義で考える「芸術性」においても優れている、ということは、個々の芸術観や好みとは別問題として認めざるを得ない、ということではないでしょうか?
つまり、あめんぼうさんが仰るような「自分はそう感じないけれど、これが今のフィギュアでいうところの「芸術性』なんだ」と・・。
でも、PCSはただ「表現の評価」であり、「芸術性」はPCSでは全く求めていない、ということなら、それは言えないことであり、そうなるとそもそも今の選手達のプロに「フィギュアの芸術性」を求めること自体にあまり意味がないことになってしまいます。
それを思うと、PCSというものをどう捉えるか、というのは観ている方としては、案外重要な問題ではあるのですね。
なお、羽生選手などがどう捉えているのかは、わかりませんが、彼は「すべて」で完成度を目指す、というようなことを言っています。
その「すべて」・・・というのは、私たちが考えるほど漠然としたものではなく、はるかに具体性を持った、TES,PCS、の「評価項目一つ一つすべて」ということなのだろう、と私は思います。(点数を稼がなければ勝てない「選手」ですから。)
彼自身のPCSの捉えかたによっても、プログラムが表現するものも変わってくるかもしれませんね。
個人的には、新SEIMEIは、もちろんスケートの純粋技術面だけでなく「すべて」において楽しみでしかたないのですが、私は表現の可能性としてSEIMEI の世界は、このプロだけで終わらせることなく、さらに追求し続けていただきたいなあ、などと思っています。
とにかく、羽生選手、一試合一試合、力や思いが出し切れる演技ができますように!!
本当に頑張っていただきたいです
桔梗さんはよくいろんなことを調べられていて、頭が下がります。
>芸術の歴史を考えると、そこにはどこか「権威」というものも見え隠れしたりもするのですね。
全くそのとおりで、芸術は西洋社会においては宗教や貴族文化と一体となって発展した経緯があり、芸術を愛好することがインテリの条件であったりもします。
その部分において、日本と状況が違うかなとも思います。
元々、自然豊かな地に住む日本人は美的感覚に優れ、自然美に触発された繊細な工芸品など、視覚的なものに対する芸術的感性は十分備わっていたとおもいますが、
一般的に個性に対する理解が希薄な為、美しいものは表現出来ても、創造性に欠けると言われます。
創造性をフィギュアに関連づけると、たとえば日本人の名前のついた技が一つもないというのは寂しいですね。
羽生君は歴史に名を残すスケーターと思うけど、ハニューとかいう技も是非残してほしいなあ。
芸術と権威の話にもどりますが、現実的な話として、なんでも芸術のカテゴリーにすることで、公的資金を受けやすくなるということもあります。
(エンタメは収益が上がるけど、芸術イベントは赤字なので)
元をたどれは、クラシックの名曲は貴族のエンタメ、歌舞伎や能、狂言は庶民のエンタメ(個人的には今でもエンタメ)。
古いもので今に残るものは、数ある中から既に淘汰されたもので、優れたものだけが殿堂入りし芸術品としてあがめられる。
いくつかの映画音楽(スパイダーマン?SEIMEI?)も今後、クラシックの名曲として残るのかも?
フィギュア界でいえば、西洋受けする芸術という権威をうまく利用しながら、スポーツとしての独自性とか価値を保つのが、賢明なことなのかもしれません。
個人的には、本来芸術は人の想像力の先を見せてくれるもので、採点で評価されるのを最終目標とした芸術というのはあり得ないと思っています。
桔梗さん、
>>
PCSはただ「表現の評価」であり、「芸術性」はPCSでは全く求めていない、
312のコメントのこの部分に引っかかったのですけど、
PCSが芸術性を表すか否かということを、0か1かで考えることは出来ないのではないでしょうか。
つまり、「PCS=芸術点」ではない(このことは桔梗さんご自身もルールを調べてお感じになったことかと思います)けれど、全く「芸術性」に関係ないわけでもない。なぜなら「表現」を計る指標ではあるから。
ISUは新採点では桔梗さんが書かれているように「あえて」artとかartisticという言葉をPCSの項目に入れてないように私も思います。また、岡部さんや杉田さんも「芸術面の評価」という言い方はなさってないですよね。
PCSでは「芸術性」という極めて曖昧な言葉をできるだけ排除して、なんとか「表現面」での評価を項目を細かく分けて、数値化して行おうとしているように思えます。(今の項目わけで「芸術性」が計れるかどうかは実のところ私にはよくわからないですが。)
PCSを考える時にどうしても残る色々な曖昧さ。
言える事は、PCSとはTESで評価できない部分を評価するものであること、そしてTESでは4分半にわたる男子シングルのFSで、たった13個の技術的要素しか評価が出来ないということなのです。
また、PCSはジャッジが下す評価であるので、高得点を目指すためには、あくまでも「ジャッジの」評価基準に従う必要がある。
だから、選手や観客がPCSをどう捉えるかということを考えても余り意味はないというか、ジャッジがどこを見て、どこを評価しているかを推測する、という捉え方にならざるをえないと思います。
ところで、あおらさんのコメントの最後の一文を拝読して、これまた純粋に疑問に思ったのですが、採点で評価されるのを最終目標とした芸術はありえないとしたら、たとえば絵画のコンクールや公募展とかはどうなるのかなと。
たしかにフィギュアのように細かく採点されて得点が出るわけではないでしょうが、審査員が票を入れて行ったりしますよね。
誰かが評価していることには変わりはないですし、その評価の仕方を明文化、細分化しているかどうかの違いなんじゃないかなという気もしますが。
むしろ、作品の純粋な評価がそういうコンペでできているのかとも思ったり。純粋な評価以外の色々な思惑が渦巻いてドロドロしているのがそういったコンペの世界だったりするのを見ていると(笑)
(一例:東京五輪エンブレム)
そして華々しい受賞歴というのは、「芸術」の「権威」付けにはどうしても必要なものなのでしょうね。
dark eyesさんの疑問はごもっともです。
基本コンペというものは、無名の表現者に向けて行うもので、評価することで引き上げ、注目させる目的があります。
ドロドロしたところだと団体の構成員を維持する為に行われる公募展もあり権力構造そのものです。
五輪エンブレムや建築のコンペはそれとは異なり、実際に億単位のお金が動くということもあり、別の意味でドロドロします。
話を戻すと、表現者にとってはコンペのグランプリが最終目標ではなく、その後の芸術活動の継続を手助けする通過点でしかないということで、五輪の金メダルとは異なるのではないでしょうか?
dark eyes さん
少し誤解がおありかな、と思うのですが、まず
>PCSはただ「表現の評価」であり、「芸術性」はPCSでは全く求めていない、
これは「私の」考え方ではありません。可能性として出てくるだろう一つの(おろらく極端な)考え方です。
元々、「芸術」とか「フィギュアスケートにおける芸術性」について議論が行われてきたと思われますが、後者について考えるなら、そもそも評価を行う側のISUが、art(芸術)artistic (芸術的な)ということばを使っていない、ということは重要なことであり、従ってPCSが「全体的に」何を目的とした評価か、ということには、いろいろな解釈が出てきて当然だろうと思われます。
ソルトレイクオリンピックの後に、ISUはルールにおいてまず思い切った改革を行って、その後も改正を続けてきている、と考えられますが、今のPCSは、ことば通りに捉えるなら、「プログラムの構成要素の点数」それ以上でもそれ以下でもないのですよね。
そこに以前の artistic impression (いわゆる芸術点)で評価していた art の要素が含まれているのか、それともそれを排除して完全に「スポーツ」という方向に転換したのか、ここの部分をどう考えるかは、「(競技としての)フィギュアの芸術性」について考えるのであれば、私はとても大事なことだと思います。(フィギュアを見るに当たり、フィギュアの芸術性についてなど、全く気にしないで見ている人には別にどうでもいい問題だと思います。)
私個人としては、PCSの項目の説明を読む限り、客観的評価が常識であろう一般的なスポーツには考えられないような、曖昧な評価基準が含まれていること、また歴史的なことを考えても、
>PCSを全く「芸術」または「芸術性」と切り離す、というのも私はやはり不自然な感じがしないでもないです。(311.)
と現在のところは考えています。
しかし・・それが絶対的に正しい、という主張はできません。なぜなら、やはり元に art/artistic ということばがないから。
>PCSはジャッジが下す評価であるので、高得点を目指すためには、あくまでも「ジャッジの」評価基準に従う必要がある。
その従うべき、評価基準に「曖昧な点」があるから、考える余地があるのだと思います。
>選手や観客がPCSをどう捉えるかということを考えても余り意味はないというか、ジャッジがどこを見て、どこを評価しているかを推測する、という捉え方にならざるをえないと思います。
選手に関しては、現実的には仰る通りだと思います。私も同じように考えているので、312.で
>なお、羽生選手などがどう捉えているのかは、わかりませんが、彼は「すべて」で完成度を目指す、というようなことを言っています。
その「すべて」・・・というのは、私たちが考えるほど漠然としたものではなく、はるかに具体性を持った、TES,PCS、の「評価項目一つ一つすべて」ということなのだろう、と私は思います。(点数を稼がなければ勝てない「選手」ですから。)
と、書きました。彼らはおそらくルールに適応することで精一杯のところがあるのでは、と。
しかし、少なくともフィギュアに「芸術性」を意識し、そういうことばをもって何か発言をする観客なら、どうしても純粋技術点であるTESと分けられたPCSというものの捉えかたを切り離して考えるのはおかしいように思います。でないと、単に自分の好みや芸術観を述べているにすぎない、となるのでは?
(別に単なる感想ならそれでもいいのでしょうが、「フィギュアの芸術性」について何かを主張するなら・・ということ。)
「フィギュアは芸術ではなく純粋スポーツである」という考え方の人もいるわけで、逆にそういう人には、PCSの曖昧部分をどう捉えるのですか?となるのと同じことです。(何度も言いますが、「芸術性」を意識しない人、しても発言しない人にはどうでもいいことです。)
また、選手にとっても、評価であるPCSの特に曖昧部分(私が311.のPEの部分であげたような主観的なことばなど)をどう捉え、それへの対応をどう推測するか(推測するためには、まずどう捉えるか考えねば推測はできません)は、選手によっても異なってくると思われ、それは当然プロの表現に関わってくるのではないでしょうか?(フィギュアに「芸術性」・・でなくても技術以上のもの・・を意識する選手とあまり考えない選手では、当然表現に差が出るのでは?)
313.あおらさんの
>フィギュア界でいえば、西洋受けする芸術という権威をうまく利用しながら、スポーツとしての独自性とか価値を保つのが、賢明なことなのかもしれません。
こちらは西洋受け云々は、ちょっとよくわからないところはありますが、考えさせられることですね。
私はどちらかと言うと、個人的には選手に対しては(芸術家ではなく)「アスリート」と捉え、フィギュアに対しては「スポーツ」として楽しんでいる方の人間ですが、現在、ほぼスポーツとして社会で認知されるに至ったフィギュアの歴史の中で、以前にあった「芸術点」というものの要素をみすみす捨ててしまう、というのも確かにあまりに惜しい、とは個人的には感じています。
あと、競技のフィギュアとショーとしてのフィギュアは、基本はやはり別物だろう、とも今は考えています。
それにしても、まっちーの連載、早く読みたいです~!
桔梗さん、「質問を絞ってほしい」とお願いしたしその理由も説明したにもかかわらず無視した上に「月見そばさんも私の質問に答えていただいているわけではありませんでしたので(笑)」とまるで私が悪いみたいな言い方は何ですか?しかも「(笑)」とか?それに私は(確かに一問一答ではないですが)あなたの質問には既にほとんど答えています。
この期におよんでも今なおご自分の芸術観(芸術の定義)は示さずに「芸術は曖昧」「PCSと芸術性」「フィギュアスケートの芸術性」とかをいくら力説してもわけわからないだけ。その「芸術」とやらが一体何を意味しているのかこちらには全くわからないから。あまつさえ他人の芸術観は疑問と称し否定。ご自分の芸術観は「そうは言っていない」「誤解」の一点張り。まるで自分は安全なところに隠れて相手に石をぶつけている感じ。
今ご自分の芸術観が説明できないのであればあなたはこんな話はやっぱり10年後にでもするといいです。もちろんあなたがここで発言するのは自由であり私にはあなたの発言を禁止する権利は当然ありません。
それから「芸術性」は「芸術ではないけれど芸術に準ずるもの」とかいう意味ではないと思います。
PCSについて。
TESとPCSに注目するんならエレメントとコンポーネントの違いを考えると良いと思います。同じく要素と訳されますが、うまく説明できませんが、前者はあくまでも独立した単体の要素、後者はひとかたまりの何かを有機的に作り上げている要素。演技構成点とは言いえて妙な訳だと思います。
いわゆる「表現」は、弛まぬ努力と訓練の結果に獲得した技術体系だと思います。感情的な表情の出し方も美しい腕の伸ばし方も技術の1つ。競技スポーツであるフィギュアのPCSはプログラム全体を構成する様々な「技術」(美しさなどなどの「表現技術」を含む)の評価に過ぎないと思います。
dark eyesさん、質問が多いので補足(別の角度)の方を主に。
芸術は創作者と鑑賞者の相互作用だと思いますが私は究極的には芸術の主体は創作者の方だと思います。創作者が芸術だと言えばそれは芸術。鑑賞者はそれを認めるか認めないかだけ、あるいは一方的に芸術と「感じる」「思う」と言うのが精一杯だと思います。これらに関連して最後にちょっと質問があります。
芸術の範囲はとても広いので定義を求めても最大公約数がせいぜいでコレには当てはまるけどアレには当てはまらないということが多々あります。いちいち限界事例に拘るのは杞憂かも。芸術の定義は辞書による説明が実は最も現実的なのかもしれません。曰く「芸術とは文学、絵画、彫刻、音楽、演劇など特定の様式などによって美を創作・表現しようとする人間の活動、およびその作品」。これによればおそらくバレエはバレエであるだけで狂言は狂言であるだけで芸術で、フィギュアスケートは特に競技フィギュアは(特定の様式として一般には認知されていないと思われるので)たぶん芸術ではないんでしょう。
私が新SEIMEIを「芸術ではない」としたことについてはあなたの解釈で合っています。ただし「よこしま」とも「不純」とも思っていません。選手が「勝つこと」興行主が「儲けること」を優先するのは当然です。アスリートは芸術家ではなく技術者か職人の部類だと思います。技術者(職人)と芸術家とではそもそもはなから目的が違います。アスリートに対して「芸術ではない」と言って何が悪いのでしょうか?逆にアスリートに対して芸術を求めたり演技を芸術と言う方がひょっとしたらむしろ失礼な気さえします。よこしまで不純だから芸術でないと言ったのではありません。目的が違うからです。
再演については上記で説明したように競技フィギュアはバレエや狂言とは同じには語れないと思っています。もし羽生君が数十年に渡ってSEIMEIを演じ続ければ私の考えも変わるかもしれませんがたかだか2回ではとても狂言と同列に考えることはできないし、勝つための戦略上のリメイクの域を出ないと思います。
映画「陰陽師」のサントラは私には不出来な大衆娯楽のイメージしかありません。ロックについては、フィギュアのプログラムって「美しい」「心が揺さぶられて感動する」系と「楽しい」「心が躍ってワクワクする」系とあるじゃないですか?前者の上位に「芸術」は想像できても後者はどんなに素敵でも「芸術」と呼んでいいのか違う言葉が相応しいのか私にはまだわかりません。芸術と言うにはそれこそ狂言並みに時を経ないと無理かも。ちなみに私は羽生君のGPFのプリンスはフィギュア史上最強クラスのエンターテインメントプログラムだと思っています。
羽生君の身体表現「技術」はもう洗練の余地がないくらいトップクラスだと思っています。羽生君が持ってて高橋選手や町田選手が持ってないものはたくさんありますが、高橋選手や町田選手が持ってて羽生君が持っていないものも何かあるんだと思います。
で、質問ですが、「(単に)美しい」「(単に)心が揺さぶられて感動する」と「芸術(と感じる)」との違いについてあなたの考えを教えてください。「美しい」あるいは「心が揺さぶられて感動する」にあと一体何が加わると「芸術」になるのでしょうか?
317. 月見そばさん
申し訳ありませんが、あなたがなぜ、そして何をそんなにお怒りになっているのか私にはわかりません。
こちらで私は「芸術の定義」などという大問題をあなたと議論するつもりは元々ありませんし、いくら答を強要されても、今現在すぐにお答できるようなものではない、ということはコメントの中でお答えしたつもりですし、いいかげんに答えていい問題とも思っていません。また、未来永劫変わらない芸術の定義など、私にはあまり考えられないので、あえて出していない、ということもあります。別の表現では芸術観については、少しずつ答えているつもりです。(文脈をご理解頂きたいです。)
あなたにはそれこそ、他を寄せ付けないような「確固たる」芸術の定義、何に関しても大変堅固なお考えがおありのようなので、それはそれでよろしいのでは?
私がいつどこでそれを「否定」するような発言をしましたでしょうか?
世の中には現在でも新しい表現もどんどん誕生していますので、そういうものも含めて「芸術」についても「フィギュアの芸術性」についても考察の途中です。それこそこちらのコメント欄からもヒントをいただけるようなご意見もあります。
あなたや芸術学者、芸術院のように「確固たる」芸術の定義でもない限り、またはあなたのペースに合わせて答を出さない限り、芸術やフィギュアの芸術性やPCSについての考察の「過程」も含めて一切語るな?とでもいうことですか?(そうは言ってらっしゃらないようですが。(317.)
ただし、私自身が、世の中で「芸術」と認められているような作品をこれまで見たり、またいろいろな「表現」の作品を見て自分で感じてきた中で、芸術(作品)と呼ばれる、あるいは自分がそのように感じるものに「共通」して存在するもの・・従って芸術(作品)の条件だろう、として考えていることについては、「卓越した技術の裏づけがあること、(芸術とは作者の表現とそれを受け取る側、双方があって成り立つものと考えるので)『美』が介在すること、独創性があること、多くの人の心を捉えること」・・などについては、これまでコメントの中で、断片的にも、私見を述べ続けてきています。
それは、私の「芸術観」ではないのですか?
「定義」でなければ「芸術観」ではない、とでも仰るのでしょうか?
317. 月見そばさん
申し訳ありませんが、あなたがなぜ、そして何をそんなにお怒りになっているのか私にはわかりません。
こちらで私は「芸術の定義」などという大問題をあなたと議論するつもりは元々ありませんし、いくら答を強要されても、今現在すぐにお答できるようなものではない、ということはコメントの中でお答えしたつもりですし、いいかげんに答えていい問題とも思っていません。また、未来永劫変わらない芸術の定義など、私にはあまり考えられないので、あえて出していない、ということもあります。別の表現では芸術観については、少しずつ答えているつもりです。(文脈をご理解頂きたいです。)
あなたにはそれこそ、他を寄せ付けないような「確固たる」芸術の定義、何に関しても大変堅固なお考えがおありのようなので、それはそれでよろしいのでは?
私がいつどこでそれを「否定」するような発言をしましたでしょうか?
世の中には現在でも新しい表現もどんどん誕生していますので、そういうものも含めて「芸術」についても「フィギュアの芸術性」についても考察の途中です。それこそこちらのコメント欄からもヒントをいただけるようなご意見もあります。
あなたや芸術学者のように「確固たる」芸術の定義でもない限り、またはあなたのペースに合わせて答を出さない限り、芸術やフィギュアの芸術性やPCSについての考察の「過程」も含めて一切語るな?とでもいうことですか?(そうは言ってらっしゃらないようですが。(317.)
ただし、私自身が、世の中で「芸術」と認められているような作品をこれまで見たり、またいろいろな「表現」の作品を見て自分で感じてきた中で、芸術(作品)と呼ばれる、あるいは自分がそのように感じるものに「共通」して存在するもの・・従って芸術(作品)の条件だろう、として考えていることについては、「卓越した技術の裏づけがあること、(芸術とは作者の表現とそれを受け取る側、双方があって成り立つものと考えるので)『美』が介在すること、独創性があること、多くの人の心を捉えること」・・などについては、これまでコメントの中で、断片的にも、私見を述べ続けてきています。
それは、私の「芸術観」ではないのですか?
「定義」でなければ「芸術観」ではない、とでも仰るのでしょうか?
ここは所詮ブログの匿名によるコメント欄なので、そのやり取りの中で、質問に答えようが答えまいが自由なのではないでしょうか?
余計なことかもしれませんが、発言は自由なので、、聞き流してください。
芸術という権威をうまく利用する1例として、
たぶんフィギュアのヒラヒラの衣装などは、他のスポーツ関係者から問題視されてると思うのですが、これも芸術表現と言ってしまえば、錦の御旗のようにまかり通ってしまうみたいなところがあるのではと思います。
ところで、よくユーロの試合とかを見ると、すごく斬新な衣装に選曲もおもしろくて本人も成り切ってるし期待してると、途中で興ざめすることがよくあります。これは芸術的であることにあこがれながら、その土台としての技術が伴わないいい例かと。
つい比較文化論になってしまうのですが、北米、アジアの選手は技術重視で、選曲も衣装もオーソドックスですね。
321番 あおら様
北米、特にアメリカは欧米に比べて意外に保守的だと思います。
若い合衆国の求心力には、やはり厳格なプロトコルが必要なのだと推察します。
芸術は人間の数だけある空気伝導のようなものだと思います。
送り手と受け手の合意があって初めて成立するものかと。
わあ、すみません。今気づいたのですが・・
319.を書いて送信したら、反映されずにコメントがどこかに消えてしまったので、しばらくしてもう一度入れたら、なぜか320.と重複してしまいました。後ほどどちらかを削除願い出します。
ついでに、一応ことばの使い方として、気になりましたので。
>それから「芸術性」は「芸術ではないけれど芸術に準ずるもの」とかいう意味ではないと思います。(317.)
~性、ということばは、「その性質をもっている」という意味も、また(そこまで至らない可能性があるものに対して)「その傾向がある」という意味もありますよ。
私は芸術に「準ずるもの」という意味で使っていませんし、そのような表現をしたことはないと思います。
321.あおらさん
>よくユーロの試合とかを見ると、すごく斬新な衣装に選曲もおもしろくて本人も成り切ってるし期待してると、途中で興ざめすることがよくあります。これは芸術的であることにあこがれながら、その土台としての技術が伴わないいい例かと。
これ確かにありますね。斬新な衣装や素敵な音楽が残念、みたいな。
逆にたいした衣装に見えないのに、そのシンプルさや素朴さがカッコよく見えたりすることも。パトリック選手の話題が出ていましたが、素晴らしい演技をした時の彼にはそんな感じを受けることがあります。(けしてパトリックの衣装が時々ヘン、とか言ってません・・・・!)
ふと思ったのですが、技術の機能美を突き詰めていくと芸術になる、ということはないのでしょうか?
羽生選手は、技術としての完成度に意識を持って行く、そうやって極めた動きの結果が「芸術」になっているように感じたからです。(無論、芸術と感じられる方と感じられない方がいらっしゃるとは思います。個人的に感じたという意味です。)特に先シーズン世界選手権フリーでは、「高い技術」+「出来栄えが美しい」+「音楽と一体化している」というときに、芸術性を感じました。
昨シーズンの羽生選手のフリーでは、身体表現という面では自然を表現するという特徴上、あえて少し抑え気味で、技術一つ一つが表現となっていたように思えました。そういった表現方法もあるのではないか、すなわち、機能美の究極が芸術になることもあり得るのではないかな、と思ったのですが、皆さんはどのように考えられますか?
おはようございます。
桔梗さん、
私、誤解はしてないと思いますよ。PCSについての二つの極端な仮説が桔梗さんご自身の考えでないことは承知していました。
ただ、仮説としても、その二つ(0か1か)だけでは考えられないのではないかと思うと書いたのです。
そして結局桔梗さんとしても
>>PCSを全く「芸術」または「芸術性」と切り離す、というのも私はやはり不自然な感じがしないでもないです。(311.)
と現在のところは考えています。
しかし・・それが絶対的に正しい、という主張はできません。なぜなら、やはり元に art/artistic ということばがないから。
という解釈しか出来ないということですよね。つまり0か1ではないわけでしょう。
フィギュアの芸術性について語る時にPCSを外して考えるのはおかしいとのご意見も理解できますが、そもそもPCSと芸術性の関係をISUがどう捉えているか、ということを私たちがいくら考え推測したところで、それが正しいのかどうかもわからないわけですよね。
自分はこう思うということだけは言えるけれど、その「自説」に基づいて論を講ずるならば、所詮は
>>単に自分の好みや芸術観を述べているにすぎない
こととたいして変わりのない状態なのではないかと思います。
「好み」が「自分の考えに合わせた推測」に変わるだけでは?
(尤もここまでの議論に於いて、私自身はあくまでも「自分がどう感じるか」「自分が芸術と感じるもの」に基づいて「フィギュアスケートと芸術性」を語っています。自分の「好みや芸術観」で判断しているわけですが、それは自分にとっては真実であることは間違いないです。
しかしISUがPCSと芸術性をどう捉えているかを考えて出した推測というものは、「真実」であるかどうかはわからない。そこに別の大きな問題が生じると思います。)
選手がPCSの曖昧部分をどう捉えるかというのも、やはり結局はジャッジの考えを理解してそれに沿う様に演技をするということとになるのではありませんか。自分はいくらこう思う、と言ったところでそれが評価されなければどうしようもないですもの。
選手の皆さんは、ジャッジの反応も見るために、(+レベルが取れているか等の確認も勿論あるでしょうが)本格的にGPSが始まる前にB級試合に出て新プログラムの感触を確認したりしているのでは、と思っています。昨季も知子ちゃんがそれで衣装やら髪型やらのアドバイスをジャッジに受けたと言ってましたよね。(衣装と髪型はPCSに直接大きな関係はないでしょうけど。あるとしたらPEかな?)
「ジャッジは試合後のフィードバックをしていて、もっとこうした方が評価が上がる可能性があるなどと伝えている」と先にご紹介したシーズンガイドのインタで岡部さんは仰ってます。「他のジャッジの意見も収集して伝えるようにしている。今のジャッジングの流れがこうなっているというトレンドをつかんで選手に伝えられるようにしたい」とも。
あおらさん、なるほど「最終目標」かどうかが問題になるというわけなのですね。ということはあおらさんは競技フィギュアは「芸術」にはなりえないというお考えなのですね。
で、フィギュアに関係ないつまらない質問なのですが、
コンペのグランプリが通過点ということは、その通過点の段階で出品して受賞した作品には「芸術」でないものもあるってことになりますか?つまり、評価されるために(審査員受けするために)完全に自分の自由な表現でなくなる場合(人の想像力の先を見せる創造性のある表現ではなく、審査員の理解できる、求めるものに合わせた表現)それはやはり「芸術」ではない?
(月見そばさんの考えに近くなりますでしょうか)
とても長くなるので分けますね。
月見そばさん、ご質問の答えになるかどうかわかりませんが、私、「美しい」とも「心が揺さぶられて感動する」とも思わないけれど、「これは芸術か?」と問われたら、「そうである」と思うものもあるのですよ。世間からも「芸術」と見なされているものですが。
たとえば以前別スレで紹介されていたコンセプチュアル・アート、マルセル・デュシャンの作品とか。
で、何で「芸術」だと思うのかというと、「何かわからないけど、とにかく何かを伝えたいという強い欲求は感じるから」というしかないです。月見そばさんのご意見に似ていますよね?
さらに競技フィギュアスケートについて言うと、突き詰められた技術の先に芸術性を感じた演技というのが実際にあります。
それはアイスダンスのグリシュク・プラトフの演技なのですが。
長野のメモリアルレクイエムはまさに技術の結晶のような演技でした。一音たりとも逃さない、とでもいうような息つく暇もない技の数々、ターンの連続。それでいてスピードは全く落ちないし、エッジワークは滑らか。
曲は映画「コックと泥棒、その妻と愛人」から、なのですが、テーマは映画に全く関係ないもの。
「夢半ばに斃れたアスリートたちへの鎮魂歌」。
まあ、このプロはテーマがはっきりしていて、強烈に伝えたい事があるから「芸術性」を感じたのだという解釈もできるかもしれません。しかし、私としては、別にテーマに共感したわけではなく、「美しい」と思い、「心を揺さぶられた」のはひたすらその比類なき技術力(が産み出す表現)に対して、だったのです。
このカップルは同じ長野のODでプレスリーの「監獄ロック」を滑ってますが、それがまた凄い技術なのです。もう、口あんぐりって開けっ放しになるほど、凄まじい密度の凄まじい動きの連続。(解説は少しダメ出ししてますが)
これだけの技術力を見せつけられたら、曲が監獄ロックだろうが、その表現は充分「芸術」の域にまで達していると思ってしまったのですよね。
こういう経験から、少なくともフィギュアスケートにおいては、たぐいまれなる「技術」とその技術が産み出す表現というものは「芸術性」を感じさせるに至ることがあるのでは、と私は思うのです。
投稿しようとして、magrittemariさんのコメントに気付きました。
私のコメントと重なってますね。でもグリプラの見せた技術が「機能美」かというとなんかちょっと違う気が。。。どちらかというと、パトリックの滑る技術に近いのかなと思います。
dark eyes さんの
>あおらさんは競技フィギュアは「芸術」にはなりえないというお考えなのですね。
それも、選手の心の持ちようかもしれません。競技フィギュアという場を通して、さらに突き抜けた先にいけるかどうか?
表現が抽象的ですみません。
具体的な例で言うと、先の方の私のコメントで少し述べてますが、
競技スポーツでの一定の目標を成し遂げた選手が、残りの競技生活の中で自ら競争から降りるように、なんのトクにもならない新しい表現を追求することで、結果的にフィギュア全体の表現の幅を広げてゆくような役割を果たしており、(例として高橋さん、町田さん)私はそれらの行為を芸術的な試みととらえています。
>評価されるために(審査員受けするために)完全に自分の自由な表現でなくなる場合(人の想像力の先を見せる創造性のある表現ではなく、審査員の理解できる、求めるものに合わせた表現)それはやはり「芸術」ではない?
コンペにもジャンル分けがあり、その道に通じた人が審査員になるのですが、そのジャンルにおける技術は基本共通なので、そこでの質の高さ+新しさが一般的な基準になりますが、コンペごとに傾向があり、自分のスタイルに合う傾向のコンペを選ぶのが本来の姿ではないでしょうか?
現代美術の場合は、技術が特定できないので、基本的には審査員自身もワクワクできるような、自分の想像の先を見せてくれるようなものを望んでいます。
この場合も、理解してもらうにはまず、なんらかの技術が必要なことには変わりませんが、いずれにしても、選ばれるものは審査員自身が感動できるような独自のオーラがあるもので、そのような表現は都合良く他人が決めた基準に合わせて作れるものではないと思います。
あおらさん
高橋さんと町田さんは試合で勝つことをあきらめて余生のような競技生活だったということでしょうか?だとしたらあまりに失礼ではないですか?
心のもちようなんて本人以外にわかりなようのないもので芸術を力説されるのは幼稚に感じてしまいます
羽生選手への書き込みも決めつけて捨てたとか書いてるし
スケーターに対して敬意がない書き込みですね
アトムさん
>羽生選手への書き込みも決めつけて捨てたとか書いてるし
あ、これは、私の発言ではありませんね。
芸術表現を極めることが、余生のようだと感じておられるのですね。
高橋さんについては、2012年あたりでは、確実に勝ちに行ってたと思いますが、その競争原理の中では無駄のようにも見える、新しい表現を同時に開拓していったことが、すばらしいところではないでしょうか?
町田さんは頭がいいので、引退前提の確信犯だと思います。
305のコメント
>ソチ後の浅田さん、町田さんなど、いわゆるオマケのような競技生活。
オマケという言葉が大変失礼です。
真央ちゃんは平昌を目指していたし(膝の怪我で叶わなかったけど)、蝶々夫人やリチュアルダンスは、復活後の2年間の競技人生がなかったら、見れなかったプログラムですよ。真摯にひたむきに競技に取り組んでた2年間だと思ってます。オマケではありません。
リチュアルダンスすてきですよね。
元々真央さんってファンでも何でもなかったのですが、最後の年にファンになりましたよ。
正直それまでのローリーの振り付けはそれほどピンと来てなかったのだけど、エキシビションも含めて、ここまでの表現ができるのかと目から鱗でした。
ほんと、ソチでやめずに現役を続けてくれて、いいもの見せてくれて、ありがとうって気持ちです。
いろいろな方がいろいろなことをお感じになって、熱いやり取りが続いてますね!
322. 観戦者さんの
>芸術は人間の数だけある空気伝導のようなものだと思います。
こちらが、私は何だかとても心にすーっと入って来る感じがします。コメントも人間の数だけある空気伝導のようなもの?
dark eyes さん、
私自身の中では、311.312のコメントは、話が横道にそれたりしてもいますが、主旨としては繋がっていますので、311.ですでに
>ISU側が art/artistic という語を使っていないのですから、見ているほうは、PCSがTESとわざわざ分けられて、全体的にフィギュアの何を評価しているか、と考えるかは、いろいろな見解が出て来そうです。
しかし、昔の「芸術点」からの流れでPCSが出来上がった、と考えるなら、PCSを全く「芸術」または「芸術性」と切り離す、というのも私はやはり不自然な感じがしないでもないです。
というように、「いろいろな見解が出て来そうです」と書いた上に、自分の見方も書いておりますので、私が0か1かとは言っていないことは、すでに伝わっている、と考えておりましたが、書き方がまずかったでしょうか?
312.の
>PCSが「フィギュアにおける」芸術性を評価しているものかどうか、はわかりませんが、もし仮にそうであるのだとしたら・・・~・・・今の選手達のプロに「フィギュアの芸術性」を求めること自体にあまり意味がないことになってしまいます。
この部分は、いろいろな見解の中で、PCSが「芸術性」を評価しているものである、と考える場合とそれを全く評価していないものである、という真逆(対照的)の立場を仮定しての私の考察を述べたものです。
これは、dark eyes さんや私自身などの捉えかたとは違って、両極端の例として(そういう人もいるだろう、と)考えられるものだと思います。
PCSが出来上がった歴史があり、同時に現在のPCSに art/artistic ということばが使われていない、ということを考えれば、この両方の極論の可能性はあるわけで、それを否定することは誰もできないことだと思います。どちらでもない人は当然いて、それを誰も否定はできない、というのも同じです。
>フィギュアの芸術性について語る時にPCSを外して考えるのはおかしいとのご意見も理解できますが、そもそもPCSと芸術性の関係をISUがどう捉えているか、ということを私たちがいくら考え推測したところで、それが正しいのかどうかもわからないわけですよね。
自分はこう思うということだけは言えるけれど、その「自説」に基づいて論を講ずるならば、所詮は
>>単に自分の好みや芸術観を述べているにすぎない
こととたいして変わりのない状態なのではないかと思います。
「好み」が「自分の考えに合わせた推測」に変わるだけでは?
こちらについては、私はちょっと違う考え方をします。
芸術観、というのは、ちょっと横に置いておくとして、「好み」と「推察」は同次元のものではないと思います。
「好み」は多分に、感覚、感情が関わるもの、しかし「推察」は思考、だと思います。
推察は、本来、感覚や感情ではできないものではないでしょうか。
PCSは、プログラム(表現)の構成要素の点数、という意味でしょうが、そこで「芸術性」の評価が行われているかどうか、は好みや感覚だけで言っても説得力はなく、自分がこう推察する、というのには、その根拠となる調査や思考が必要となってくると思います。
答はどちらにしても「わからない。」(ある程度ISUの作戦・・逃げ道・・あるいはそうせざるを得なかった事情で・・ではないか、とも私には思えますが)
しかし、わからないことや曖昧なことを推察するのも、また人にとっては、(芸術を楽しむのと同じように)楽しいところ、とも言えるとも思います。
スポーツ選手などは、そういうところ(試合の結果は誰にもわからない)が、苦しいのかもしれませんが、実は案外楽しい部分もあるのでは?
あのPCSのPEの、personality なんて、例えば羽生選手なら、何を評価されている、と推察するのでしょう?
パトリックなら?・・・
それにしても、スポーツの勝敗も推測が実に難しいものだとは思いますが、芸術(作品)の推測は、いくら思考してもできそうにないですね。それを作る人以外・・。
324.magrittemari さんのコメントは、私も常々、感じて来たことと似ています。
これについては、またの機会に書かせていただければ、と思います。
真央さんのことが話題になっていましたが、私も真央さんが復帰後引退までに見せてくださったプロは、もう、なんと言うのでしょう・・
うまいことばが見つからないのですが・・作品から漂うオーラが他の選手たちのものと全く違っていたと思います。何か単に「美しい」というだけではなく。
私は、蝶々夫人やリチュアルダンスというプロで戦った浅田選手と一緒に戦うことができた女子の選手たちは本当に幸せな選手だったのでは?などと思っています。
あと、318.月見そばさんの
>羽生君のGPFのプリンスはフィギュア史上最強クラスのエンターテインメントプログラム
私はあれは今後もしショーでやっていただけることがあったら、何だかさらにエンターテインメント強度が増す、失神プロになるのでは、と実は密かに期待しています。
試合では・・・たぶんご本人的には相当きつかったけど、相当頑張ったプロなのではないかなあ、と思っています。
皆様、こんばんは。
話の流れとはあまり関係ない話をひとつ。
フィギュアスケートのPCSは、スケーティングスキルが最重要要素だと、フィギュア解説本で読んだことがあります。
何をいまさら、と言われそうですが皆様のお話にインスパイアされたので記しておきますね。
よく言われる、一足の伸びや深いエッジワーク、無駄なく合理的な推進力や片足スケーティング技術などなど。
これは、映像では分かりにくい部分で、パトリックの体重に乗った鮮やかなスケーティングは、やはりブランドです。
多様な方向への習熟したスケーティングで氷面を大きく支配する遂行能力、つまりアスリートとしての本領が評価の根本にあるのが大前提ですね。
そこをベースに、トランジッションなど後4項目の評価がなされるし、PCSの5項目は互いに影響し合うものであると。
複雑ですね。
TESが各エレメンツの採点だとすると、演技全体を総括したジャッジから選手への回答でしょうか。
所謂芸術点に近いのは、周知の通り曲の解釈とパフォーマンスの部分だと思います。
スケーターのエネジーが観客と繋がっているか、等の着眼点を読むと、ヘルシンキのキスクラを思い出します。
羽生選手は、幼い子供のような表情で僕、エネジーが足りなかったんじゃないかなってオーサーに相談?していましたね。
選手自身もジャッジの評価がわからないので不安だと思います。
私見ですが演技を数値化した上で最後の評価はやはり観客との一体感とジャッジの価値観に依るところだと推測します。
映像でもうひとつ。
ロシアの放送で、解説者が演技中の羽生に対して、冷静に冷静に、コントロールを失わずに、とエールを送っていたのが非常に印象的でした。
東洋的世界観が少し難解で共感を得にくいと言われたこの楽曲については触れず、また当初盛り上がりに欠けるとこのサイトでも評価が分かれたプログラムについては、コメントなし。
当然の話ですが、エレメンツを完璧に実行するのが勝利への道。
あまり踊れていない、あるいはバレエの素養がないので芸術性が欠ける、さらに曲も壮大な古典ではない、ひとつでも改善すべきだという要求がもし万一あるとすれば、競技プログラムを語る上で少しだけズレた視点だと私は思います。
競技プログラムの魅力は、限界まで押し上げた技術の合間を彩る個性あふれる身体表現。
全ての動作が目的を持って繋がりスケーティングで表現される楽曲の世界観。
そういった選手の個性を、所謂アートと呼んでも良いのかも知れませんが、芸術とは異なるものだと私は思います。
桔梗さま
すれ違ってしまいました。
桔梗さまの熱いお話、楽しく読ませていただいています。
どこかの会場で、すれ違っているかも知れませんね。
平昌、なんだか世界情勢が不安ですが選手をしっかり応援したいと思います。
観戦者さま
ロシアの動画はよく見るのですが、解説何を言ってるのか全くわからずでしたので、情報ありがとうございます。(解説者の話し方は好みなので、つい聞いてしまうのですが、)
結局、若い表現者にとって演目(題材)というのは、誰かに伝えたいということよりも、まず先に自分自身のモチベーションを上げるためにあるような気がします。(それは芸術でも同じこと)
ですから、SEIMEIの世界観そのものが伝わることよりも、羽生君がそこから力を得て、完璧に演じることがまず重要で、その結果伝わるものは、文化的背景を超えたもっと普遍的なものなのでしょう。
観戦者さん、
>競技プログラムの魅力は、限界まで押し上げた技術の合間を彩る個性あふれる身体表現。全ての動作が目的を持って繋がりスケーティングで表現される楽曲の世界観。
とても共感しました。(アートと芸術を分ける理由は、ちょっとよく分かりませんが?)しかし、だからこそ、これらを可能にすることができるユヅの競技プロには、「圧倒的に観客をひきつける楽曲」を使用して欲しい、という思いもありました。「ホプレガ」や「SEIMEI」を安易に否定したくはありませんが、できることなら彼には、B級映画音楽などにいつまでも拘りつづけて欲しくなかったなあ、という率直な感想です。(オリジナルを完成度の高いフィギアスケートの作品にまで仕上げたという点においては、高く評価しています。)
月見そばさん、
明快なコメントの数々、お気持ちがダイレクトに伝わってきました。
>羽生君のGPFのプリンスはフィギュア史上最強クラスのエンターテインメントプログラム
特に共感しました。今季はSP「バラ1」で行くとのことですが、初期の段階で、もし、どうしても思うような結果がでなかったなら、迷わずSPは「クレイジー」に戻して欲しいです。”押してもダメなら引いてみな”、ですね。そして、OPの舞台でフィギア史上最強クラスのエンターテイメントプロであることを、証明して欲しいと思います。(振付、衣装、リメイクした「クレイジー」が、みたくて、みたくてたまりませ~ん。「パリ散」二季めのように、大化けする予感♡)
それから、「芸術」とは個人的な身体的反応を例にすれば、そのものを前にして鳥肌が立つかどうか!そして、「芸術」とは論ずるものではなく感じるもの!ということに尽きるのかもしれません。(ちょっとシンプルすぎたかな!?ごあいさつ代わりに、芸術とやらを定義してみました。笑)
「芸術性」についてはアメリカの心理学者によれば、この芸術に対する身体的反応は、「遺伝する」とのこと。例えば、「芸術性の高い親子が同じ楽曲を聴いた場合、鳥肌が立つ箇所が一緒である。」というような研究報告があるようです。
月見そばさんも、(鳥肌~!)思い当たるフシがあるのでは・・・ふふふ。
競技のフィギュアで戦いの結果の作品であるプロに芸術性を感じるかは個人の問題だと思う。
競技のフィギュアはルールにのっ取ってスポーツの技術を競うものではないの?本来芸術ではあり得ない。その辺の境が混沌としたり何かの勘違いをさせてしまうとしたらスポーツとして確立してるものなのか?
ジャッジがここを見てますよ、なんてルールに書かれてること以外を選手に話すなんておかしなことだし、応援してる方もそれが当たり前のように思ってるとしたら本当にスポーツとして見てるのか?と感じる。
評価する側が選手に評価の裏情報流して当たり前なんてスポーツ聞いたことない。その情報は全員の選手が共有できるのか?いくらスポーツが商業化してるとは言え本当にそんなことがフィギュア界では普通に行われてるのか?
なんかまだスポーツとして本当には確立してないような感じを受けてしまうけど見ていて面白いな、と思う人は多いのがまた面白いところ。実際面白いし。
羽生などはどちらかと言えばフィギュアのスポーツとしての面白さを促進してる選手に自分などには見えている。その業績を考えると、そんな選手にやれ衣装だ、やれ音楽だ、芸術性だ、どんなプロ選べだのとあれもこれも求めるのは気の毒にもなる。ガチで勝負してる他の選手にたいしてもそれは同じだし、本人そういうのをあんまり聞いちゃいないんだろうけど。
フィギュアスケートと芸術に関する皆さんの様々な見解、興味深く拝読しています。
さて、桔梗さん、何度も書きますが、二つの極端な仮説だったということは理解しています。これも何度も書きますが、なぜ二つの両極端の仮説だけに基づいて考えるのかと思ったから(しかもご自分の考えとは違うのに)書いたわけですが、なるほど332のコメントによると意図的に外されていたようですね。わかりました。
「好み」と「推察」を同次元に語った覚えはありませんが、これは私の書き方が悪くてそう取れたのかもしれませんね。
その部分については、(どんなに調査や思考を重ねて導いた)「推察」であれ、結局大きく間違っていることもある、正しいかどうかはわからないというところが私の言いたい最大のポイントでした。
私の325のコメントに於いてここまでは、「ISUがPCSと『芸術性』の関係をどう捉えているか」についての話であり、その仮説(推察)としては1、PCS=芸術性、2、PCS≠芸術性、3、どちらとも言えない、の3つしかないと思いますがどうでしょうか。
その話とは別に、「PCSの各項目」をジャッジがどう捉えているか、ということについて分析して推察する、というのは、実際のところ私達もプロトコルを見てPCSの各項目はどうしてこの点になるのか、ということを考える時に行っていることだと思います。
その際もポイントは「ジャッジがどこをどう見ているか」ということですよね。ジャッジが評価するのはこういう部分で、一方こういう部分はあまり評価されないのではないか、とか。
そしてジャッジはPCSの評価の際、最重要と考えているのは333で観戦者さんが仰っているように、スケーティング技術であるようです。
シーズンガイドで岡部さんも「芸術面であるPCSの点を伸ばすには、まず何をするのが良いでしょう」と野口さん(野口さんにとっては、PCSはあくまでも「芸術面」なんですよね)に聞かれて、「基本はスケーティング技術です。スケートをきちんと滑る事ができる、というのがフィギュアスケートの土台。スピードの加減速、色々な方向へのターン等、体の傾き、エッジの音など、生で見たらこんなに違うのかと思うことでしょう。」と答えておられます。
その後にTVではスケート技術はわかりにくいとも述べておられます。(観戦者さんのコメントにあるのと同じですね。)
あおらさん、フィギュアに関係ないコンペについての疑問に丁寧にお答えいただきありがとうございました。
仰る通り、まず自分のスタイルや目指す方向性に合ったコンペに応募する、というのは当たり前のことかもしれません。それならば無理して自分を曲げなくともやりたい表現を追求できそうですね。
そして以前に比べれば現在は、驚くほど広範囲の表現が「芸術」として許容され、認識されているように感じています。
競技フィギュアと芸術について、あおらさんの
>>競技スポーツでの一定の目標を成し遂げた選手が、残りの競技生活の中で自ら競争から降りるように
の部分については、私は違うのではないかと思っていましたが、先日の「アキレアの橋」での大輔さんの発言ではっきり「競争から降りたりしていなかった」と確信しました。
大輔さんは(少なくともソチ五輪?その前の全日本?くらいまでは)闘って勝つ気持ちで試合に臨んでいらっしゃったようです。
いつも思うのですが、フィギュアスケートというのはとりわけ残酷なスポーツで、若くて身体的な状況の良い時は技術的には(特にジャンプ)高難度なことができるけれども、表現的にはやはり精神的な若さが出てしまう部分、また身体表現においても訓練の年数から、ややもの足りない部分というのが出るのが一般的です。
経験と年齢を重ねて精神的に成熟し、身体表現もこなれてきて洗練度を増し、スケーティングも年月を重ねて熟達した頃には、肝心のジャンプが跳べなくなってくる。。。
あおらさんが「残りの競技人生」と仰っている期間は、経験や年齢から、より深みのある表現が可能になった期間ではないかと私は思っています。
ソルトさん、
>そんな選手にやれ衣装だ、やれ音楽だ、芸術性だ、どんなプロ選べだのとあれもこれも求めるのは気の毒にもなる。
そうは思いません。そもそも、フィギアが「只のスポーツ」だったら、ここまで盛りあがってないと思いますし、市場のニーズに、ある程度答える必要性はあると思います。が、まあいいじゃなですか~!ユヅは「アスリートでありアーティスト」ということで♡(最近、死語になってるかも 汗)
彼は、まさに「時分の花」。そう、花の命は短いんです。どちらかと言うと「アーティスト・ユヅ」が好きなファン層(オーサーコーチ含む?)は、あせっているかもしれません。
「それでいいのか~羽生く~ん(ユヅ~?)!!」みたいな・・・。
>羽生はフィギュアのスポーツとしての面白さを促進してる選手
確かに彼は、良く頑張っていると思います。が、しかし「アスリート・ユヅ」ばかりをファン(関係者含む)まで助長するのは、それこそ、気の毒にもなりまーす!(笑)
私はフィギュアは芸術性を兼ね備えたスポーツだと思っています。ルール自体に、芸術性を兼ね備えた判断の要求がなされると思うからです。例えばジャンプのGOEは以下の要素で決まりますが、「予想外の / 独創的な / 難しい入り」などはどのように判断するのでしょうか。無論ジャッジにそれは委ねられていると思いますが、「予想外の」「独創的な」「難しい」入り、を考えた際に、そこに芸術的要素が絡むように思うのです。少なくとも、これらの要素は芸術と呼ばれるものの十分条件には当たるのではないでしょうか。また、「音楽構造に要素が合っている」という点も重要であるように思われます。この判断には「感覚的」な芸術的視点が重要であるように思われます。
1.予想外の / 独創的な / 難しい入り
2.明確ではっきりとしたステップ/フリー・スケーティング動作から直ちにジャンプに入る
3.空中での姿勢変形 / ディレイド回転のジャンプ
4.高さおよび距離が十分
5.(四肢を)十分に伸ばした着氷姿勢 / 独創的な出方
6.入りから出までの流れが十分(ジャンプ・コンビネーション/シークェンスを含む)
7.開始から終了まで無駄な力が全く無い
8.音楽構造に要素が合っている
すなわち、ルール自体に芸術性を兼ね備えた判断の要求がなされるとするならば、そのルールに基づいて行われるスポーツも芸術性を兼ね備えたものになるのではないか、と思った次第です。
〉市場のニーズに、ある程度答える必要性はあると思います
ニーズに答えようとして体や心を病んでしまう女子選手も出てきている折り、あまり軽々しく聞きたくはない言葉かな。
「只のスポーツ」…選手は聞いてどう感じるのかな?
時分の花がなくなりそうだと焦ってるファン?勝手に焦ればいいんであって選手自体が巻き込まれる必要もない。
と言うかその辺りも上手く対処できないと今のスポーツ界では生き残るのが難しいってとこなのかな?
まぁ個人の方の感じ方には干渉はしません。
dark eyesさんの高椅大輔さんに対する見解はたぶんその通りなのだと思います。(私はTV見てないので)
高橋さんは根っからのアーティスト気質なので、彼なりの勝負の気持ちが持続しない限り、競技など続けられないのではと思います。
それを強く感じたのが、2012年あたりの2シーズンで、身体的にもピークの頃、実際にワールドのトップを狙っていたはずですが、私個人的には一番好きなFPのブルースが、PCSで思ったほど評価されず、新しい表現に挑戦することが、実際の点数につながらないことがわかりました。
次のシーズンの「道化師」は、前年の羽生君の「旧ロミジュリ」の影響を受けたのではないかと、、羽生君の演技は当時の彼の置かれていた状況に対するやり場のない怒りが、キャラクターに乗り移って演技に昇華された強い表現であり、全日本での「道化師」もまた、怒りを推進力にしたすばらしい表現でしたが、そこでピークが来てしまった感じ。
大けがの影響で、技術点では勝負出来なくなった高橋さんはPCSで勝負してたといえますが、シーズン途中でうまく行ってたSPを変更するなど、ちょっと常識では考えられないような行動は、やはりアーティスト気質によるのか?そのおかげで、いろいろプロを見せてもらえてうれしいのですが、勝ちに行ってたと見えないところもありました。
ところで、残りの競技生活やオマケの競技生活というと、ネガティブイメージを持たれるかと思うのですが、(本体よりもオマケ目的だったり)オマケにはサプライズがつきもので、そのサプライズを1フィギュアファンとしては楽しませてもらっています。
先の私のコメント冒頭部分。
高椅→高橋 でした。
あおらさん、時間がないのでちょっとだけですが、気になったので。
>>シーズン途中でうまく行ってたSPを変更するなど
これ、いつのシーズンのことですか?
もしかして「道化師」のシーズンのことなら、残念ながら上手くいってなかった(特にStSqでなかなかレベル4が取れなかった)から変更したのでは?
今でも岡部さんがBS朝日のGPS特番(だったかな?)で大輔さんのSPステップにダメ出しをしていたのを思い出しますわ。。。
勝ちに行った故の行動ですよ。
また、
>>次のシーズンの「道化師」は、前年の羽生君の「旧ロミジュリ」の影響を受けたのではないかと、、
も違うかなと思います。
というか、仰る「影響」が何のことかわからないのですが。
結果としては全日本の際の「怒り」の感情があのプログラムにぴったりだったため、えも言われぬ効果をもたらしたとは思います。
しかし大輔さんは表現には非常にこだわりのある方なので、あのプロが「道化師」じゃなかったら、「道化師」のように暗く、重たい感情を表現する音楽でなかったら、おそらくその「怒り」は解放させず、表に出さないまま演じきったのではないかと私は思っています。
連投失礼します。
やっぱり大輔さんのシーズン途中でのプログラム変更は「ロックンロール・メドレー」の時が初めて、で合ってました。(ちょっと記憶に自信がなかったですが)
今、ここのコメント欄で話題になっていることとも関連しているので、このスポルティバの記事を貼っておきます。
このシーズンってはじめはローリーに頼もうとしていたのに、モロゾフが大輔さんに(再び)付いているのが気に入らないからとローリーが断ったとか、そんな話がありました。
モロゾフは勝手にローリーの振り付けを変えたことがあって(織田君の時)、それが嫌だったそうです(汗)
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/figure/2013/03/13/post_205/index.php
dark eyesさん
早速、記事の紹介ふくめ、当時の状況がよくわかる情報ありがとうございます。
するとさらに疑問が、、ステップのレベルが取れない位のことでプログラム全体をシーズン後半に変えるなんて、よくあることなのかな?旧プロにもどすならもっと簡単だったのに、それをしないのが彼らしいのかもしれませんが。
羽生君の影響というのは、つまり、高橋さんはソチ後、タンゴやサンバ、ブルースなど、おもに音楽による身体表現をメインにされてたわけですが、12年ワールドで、感情表現豊かなドラマティック路線の羽生君のFPが、洗練されたブルースよりも点数上では高い評価を得たことがきっかけとなって、勝つ為に「道化師」というプロの選択につながったように見えるのです。
それは、コーチや振り付け師の考えかもしれないし、本人が自分なら若い羽生君よりもさらに深い感情表現できるとの内なる競争心からかもしれませんが、あまり高橋さん自身の好みではないような選曲であったとは思います。
たびたび訂正ですみません。
ソチ→バンクーバー でした。
高橋選手のシーズン途中でのプログラム変更については、これもまた、たぶん本当のところは彼だけが知っている・・ということで、それぞれの人が、情報や当時の状況、高橋選手や他の選手の演技などを見てきて自分が感じ、考えてきたことなどによって推察するしかない、ということでしょうか?
342.のあおらさんのコメントなどには、「PCS」ということばも登場し、本当に、TESとわざわざ分けているPCSの正体、全体的な評価目的、というのは気になるところです。
「プログラムの構成要素の点数」ということばだけからはなかなか判断が難しいです。
選手たち自身は皆が同じように捉えているのでしょうか?
338.dark eyes さん、PCSにおいて芸術性の評価が行われているかどうか、を考えた場合、推察の可能性として考えられるのは、
>1、PCS=芸術性、2、PCS≠芸術性、3、どちらとも言えないの3つしかない
私もそのように思います。
ただ、その推察の根拠については、それぞれいろいろ考えられると思いますし、3については、その中で1により近い場合と2により近い場合、全くわからない、という場合なども出てくると思います。
PCSのみならず、TESの方でも、ジャンプのGOEが決まる要素の、ことばによる説明について、スポーツの評価としては何か普通と違い、それが「芸術」的要素に関係しているように思える、という340.magrittemari さんのご意見はまた興味深いですね。
確かにスポーツの純粋技術評価としては、「予想外の / 独創的な / 難しい入り」などはちょっと曖昧なことば使いに感じられますね。
どうなのでしょう?
ただそれについては、芸術性云々よりは、ずっと上164.で、月見そばさんが指摘されている
>採点のインフレーションの通貨切り捨ては毎年ある。できる人が増えてくれば要素の判定は厳密化される。
このあたりに関係する・・そういう「対策」のためにあえてあまり厳密なことば使いで限定していない、ということかもしれない、とも考えられます。
毎年、毎回の試合で、どんな選手が登場し、どこまで技術力を上げてくるか、あるいは出場選手全体の技術的レベルがどこまで上がるか、などは読み切れない部分もあり、順位付けをするためにはある程度の評価基準変動の余地も残しておかないと・・という理由で、「あえて」曖昧表現を使っている、とも考えられるように思います。
スケートを自分でせずに見ているだけの人間と、選手やジャッジのような専門家では「予想外の/ 独創的な/ 難しい入り」などということばの捉え方はやはり違うのではないのでしょうか?
例えばどんなターンやステップを使ったつなぎからジャンプに入るのが「予想外の/ 独創的な/ 難しい入り」なのか、についてその時々で、選手やジャッジ側は一般人よりはずっと「具体的に」そのことばの意味を共有しているのではないかと考えられます。
そして、例えば、イーグルから直ちにジャンプに入るのが「独創的で難しい入り」と当初はみなされても、多くの選手がそれをできるようになれば、必ずしもそこに独創性があり、予想外、難しいことではなくなる時がやって来ます。
その時になれば、また新たにそれまで誰もやらなかったようなものが技術的に予想外だったり独創的なものになっていくわけですね。
そこは漠然としたものではなく、どんな技をやったからその時には「予想外の/ 独創的な/ 難しい入り」なのか、選手やジャッジには具体的、客観的判断ができるものだと思います。
そういうことを考えると、TESのほうの「あえて」曖昧なことば使いというのは、芸術性の評価を目的としている、とか芸術に関係がある、というよりは、TESがスケートの純粋で断片的な技術の評価であることを考えても(TESは私にはPCSよりずっとわかりやすいです。)スポーツの「技術」の進歩を予測した、もっと現実的なことを目的としているように私には思えます。
しかし、TESにおいてもなされている、曖昧なことば使いがフィギュアスケートというものに内在する、あるいは目指すもののひとつとしての「芸術性」の特徴を表していないか、
>ルール自体に芸術性を兼ね備えた判断の要求がなされるとするならば、そのルールに基づいて行われるスポーツも芸術性を兼ね備えたものになるのではないか
こちらを否定することもまたできないです。
「音楽構造に要素が合っている」・・これなどについては、ジャッジ全員がジャンプというスケートの技術要素と音楽構造の調和というものに明確な基準を共有しているのでしょうか?ということもあり・・。
また、PCSについても、SSなどの基準にはたとえ曖昧なことば使いがあっても技術的色合いが濃い、という点では上のような現実的理由は考えられます。しかしやはり、PEの pesonality などは、どうやってもそう考えられないんですね。
すぐ去りますのでお許しを。
<芸術>は過去の他人の価値観の集積。西洋における論理美、日本における情緒美に基づく過去の(ひょっとしたら会員制の)多数決。
西洋人が<芸術>というとき、その下には彼らの美意識に根差した<伝統>があります。フィギュアにおいては、同じ曲を何人もが使用していること、純和風のプロはわかりにくい・受けがよくないと考えられていること等、いくつかの答えをこの内に探り当てることができます。
羽生はその演技が度々<魔法>という言葉で形容されることがありますが、彼のような特別な選手においては<芸術>単体で考えを深めるよりも、この<魔法>を並列において考えてみたら、また違った答えがでてくるかもしれません。
羽生の演技に芸術性を個人的な意味で感じると言う人は別にして、西洋でとらえられて来たような芸術性みたいなのがほとんど無くしてスケートの技術力とスポーツ性で高得点を稼いでしかも万国共通に通用する衝撃的で新鮮な美?を産み出してるのが羽生のスケートのような。自分達の芸術観やこれまでのフィギュア観の範疇にないから魔法なんて言葉が飛び出すのかな。
〉あまり踊れていない、あるいはバレエの素養がないので芸術性が欠ける、さらに曲も壮大な古典ではない、ひとつでも改善すべきだという要求がもし万一あるとすれば、競技プログラムを語る上で少しだけズレた視点だと私は思います。
とのご意見にはとても納得できます。少しだけでなくかなりズレてるとも。
羽生などは下手にバレエなんかに手を出すことは少なくも競技続ける間は不要と思わせてくれる東洋人選手。違うかなぁ…
でもフェルナンデスのプロなんかは一見深みとかないようでいてやっぱりヨーロッパなんだよなぁとつくづく感じる時がある。それがいいとか好きとかの意味ではないけど。
それにしても今季誰が勝ってくのかどんな試合展開になるのか想像がつくようでつかない。
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