カナダ・トロントで練習を公開し、平昌五輪シーズンのフリープログラムを発表した羽生結弦のニュース動画です。
フィギュアスケート14年ソチ五輪金メダリスト羽生結弦(22=ANA)の今季フリープログラムが、15-16年シーズン「SEIMEI」の再演となることが8日(日本時間9日)、カナダ・トロントで行われた公開練習で発表された。既にアイスショーで披露している新ショートプログラム(SP)も14-15、15-16年に使用した「バラード第1番」の再演。五輪でSP、フリーともに過去のプログラムを滑るのは極めて異例。世界最高得点を出した得意の曲で、66年ぶりとなる連覇に挑む。
平安時代の「陰陽師(おんみょうじ)」安倍晴明をテーマとした「SEIMEI」は、自ら選んだ思い入れのあるプログラムだ。狩衣(かりぎぬ)をイメージした衣装に加え、振り付けにも能や狂言を研究して日本の伝統を取り入れた。過去に日本人トップスケーターらも和風プログラムに挑んできたが、国際舞台ではなかなか評価されにくかった。だが、羽生は15年のNHK杯で当時の世界最高得点となる216・07点をマーク。続くグランプリ(GP)ファイナルではさらに219・48点と記録を塗り替え、世界に「和」を認めさせた。
2季前は4回転ジャンプが2種類3本だったが、昨季4回転ループという新たな武器を加え、フリーでは3種類4本が出来るようになった。「SEIMEI」で4回転ジャンプ4本を成功させれば、自ずと技術点は引き上がる。
見慣れたプログラムという懸念について、羽生を指導するブライアン・オーサーコーチ(55)は「それはない」と否定した。「誰が見ても、いいなぁと思うプログラムだし、振り付けも新しくなっている。ただ、レベルを引き上げる必要はある」。2度目の「SEIMEI」をいかに進化させるか。五輪に向けて、新たな挑戦が始まる。
(2017年8月9日掲載 日刊スポーツ「羽生結弦、今季フリーは「SEIMEI」再演に決定」より)
“羽生結弦 平昌五輪シーズンFSプログラム発表「陰陽師」 (2017/8/9-10)” への450件のコメント
正直高橋さんの気持ちとかはここで話すべきことなのでしょうか?
高橋さんのコメント欄でやっ方が有意義だと思います。
ここは羽生選手の新プロのコメント欄ですよね?
あと羽生選手は身体表現も芸術性も兼ね備えたスケーターだと思いますよ
言えないよを過去と比べてみると洗練されたのがよくわかります
401あさん、
突然いらした方には分かりにくいかもだけど、高橋選手のことは元々当時の羽生との関連から出てきた話で羽生に全然関係ないこととして話が続いてる訳ではないし、芸術や芸術性についてもここで多くの人が時間をかけて丁寧にやり取りしながらいろいろ議論してきてますよ。
めんどくさいかもしれないけど前に戻って一読してみればなぜこうなってるかわかると思う。
このスレで高橋選手のこと話すのを気を使ってる人もいるよ。
羽生の演技の芸術性を頭から否定してるような意見もほとんどない。
401.あさん
羽生選手の身体表現に関してですが、「言えないよ」に関して言えば、かなりアップしてきているのは私も感じました。ただ、もっとアップするだろうと思うのです。そういう期待を込めての自分自身のコメントでもありました。ホプレガでの「和」の感性である、自然と共存して生きていく、という難しい表現をこなした羽生選手が、その経験を経て、改めて新SEIMEIの「和」の舞台でどんな表現をされるのか。自分は今、期待で胸いっぱいです。
こんばんは。
あさん、そうですよね。そう思ってらっしゃる方が沢山いるだろうと思ってました。ソルトさんの仰るように全然関係ないという話題ではないですが、ちょっと高橋さんメインの話が長引きすぎだと自分でも気になっていました。(まあ、私が間違いにこだわったせいなんですけどね。)
2000daysの内容もさすがにこちらに書くのはどうかな、とも。
というわけであおらさん、申し訳ないですが高橋さんの心境についてはご自分で著書2000daysとかbe soul2とかを確認なさってみて下さい。図書館にあるのではないでしょうか。
お話の続きが高橋さんメインになるようでしたら、また別の適切な場所を提示して下さい。
高橋さんの話題でも羽生選手のプロ選び等に関連度が高い場合はこちらでいたしましょう。
羽生選手の身体表現は本当に洗練されたと私も思っています。意識しているだろうことも、努力なさっているのもわかります。まださらに出来るはず、と思っているだけです。
投稿しようとしたらmagrittemariさんも似たコメントでしたね。
でもまあ、あれだけ高難度のプログラムではさらにもっと〜なんて言っては申し訳ないかなとも思っています。
以前、ジェイソンのプロを羽生選手が滑ったら?でしたっけ。
少し意味が違う問いだったけれど、そんな話が出てましたよね。(とても楽しいお話に発展していました。)
でも、クワドを何本も入れるというだけで、心身にもの凄い負担がかかるそうなので、さらに表現、他の部分に気を配るということが精神的、体力的にどれほど大変か、クワド無し、或いは本数の少ないプロとは比べものにならないとその時に思ったものです。
それを考えると、(考えなくてもかもしれませんが)本当に羽生選手は凄い選手ですね。
ううん、今度はさらに洗練なんて言葉も。
羽生のファンはファンとしてもなかなか貪欲(笑)
羽生の技術はすでに今世界でトップの洗練具合だと思う。それ以上の表現の洗練というのは要するに振り付けとか上半身や手の使い方とかのことなんだろうか?
どういうもののことを意味してるのか想像ができないけどある程度は個性ですまされる部分もあるだろうし個人の好みの問題もありそうかな。
昨シーズンのあれはたぶん表現に特化したプロだったんだと思うけどエキシなんか見ると羽生という選手にはバレエの雰囲気はなくて、なのに独自の美を産み出してるように感じた。硬質の柔軟性という変な言葉が見てて浮かんだ。
まあ自分は現役中の羽生はスケート技術追求でそれが元になった表現としてどこまで行けるか楽しみにしてる方かな。
昔話で長々と失礼しました。
羽生君の芸術性のみに絞ると、私個人としては、羽生君の動きそのものよりも、型に美しさを見いだすのです。
イナバウアーやイーグル、ハイドロなど、あの体制のまま、長時間氷上で滑りながら型をキープすることが、難易度的にはどうかわかりませんが、前になにかのエキシビションで、女子選手がハイドロを失敗するのを見て、簡単ではない技と認識しました。
今年のアイスショーで、荒川さんが、リンクの端から端までイーグルの体制で、スーっと滑って行ったのには度肝を抜かれました。こういうのを技術に裏打ちされた芸術性というのでしょうか。
羽生くんには、無理にバレエやダンス、手の細かな表現にこだわるよりも、もっとスケートの本質の部分で表現の美を開拓して行ってほしいと思います。
ソルトさん、「芸術という言葉には本来個人感覚ではなく社会的意味が存在するはずなのにそんなことどーでもよくつい使っちゃう人が多いのでは?」に同意です。のくせに「芸術性が」とか「芸術を捨てたは疑問」とか「芸術は一様ではない」とか上から目線で芸術を語る人がいる。
で、私はSEIMEIに芸術は感じないし、今でも新SEIMEIは芸術を捨てたと思っています。フィギュアの技術に美を感じ時に感動を覚えることは多々ありますがそれは芸術というよりスポーツとしてがほとんど。羽生君の技術はトップクラスなのでその技術に美を認めることは多い。それはSEIMEIでも同じ。でもそれもスポーツとして。スポーツとしてSEIMEIはトップクラスの得点の可能性があるプログラムだと思っています。羽生君はスポーツの醍醐味の結晶のような選手です。
最近、フィギュアに近いと思われる舞台芸術のバレエを鑑みています。もしバレエが技術を魅せる芸術だとするならばそれをフィギュアに当てはめるとどうなんだろう?と。でもこれはバレエそのものが芸術として既に認知されているからこその話でフィギュアとは違う。そんな感じでまとまらず悩み中。
そもそもスポーツである競技フィギュアに芸術を語るのは本来ナンセンス。「芸術だという他人の感覚を否定する」ことが差し出がましいというなら同様に「芸術ではないという他人の感覚を否定する」こともまた差し出がましい。いやむしろ「スポーツに芸術を感じない」は至極真っ当なことなので、後者の方がより一層差し出がましいことを自覚すべきだと思います。
dark eyesさん、「どこに芸術性を感じたのだろうと自問してみると、その圧倒的な技術力としか思えなかったというわけです。」と「その時にも技術力は凄いと思ったものですが、果たして芸術的かと言われると個人的には?だったのです。」とのこの2つの事例の違いは一体何なんでしょうね?個人的に興味あります。前者にあって後者にないものとは?
芸術の総論では「工業製品と芸術作品の違い」「技術と芸術の違い」「技術者(職人)と芸術家の違い」が過去から散々論ぜられ決着がついています。「表現者と鑑賞者では芸術活動の主体は表現者の方にある」ことも。なので厳密には「技術の極致が芸術である」というのは間違い、「競技フィギュアに芸術の存在を主張する」というのは間違い、「芸術かどうかを決めるのは鑑賞者サイドの個人的な感覚」というのも間違いなんでしょう。芸術とは違うタームを使うか、芸術の定義を変えない限り。
各論としてバレエみたいにそのジャンルその作品そのものが既に芸術として認知されている場合はまた少し状況が違うかもしれませんが、競技フィギュアは芸術として認知されていないのでやはり当てはめるのは間違いなのでしょう。
ここから先はスポーツから離れて好みの話。
羽生君は踊れる子じゃない。音があってりゃいいってもんじゃないんだよなあ。高橋選手や宇野君は踊れる子。
でもあれだけ高難度なことして二重三重に要素をギチギチに詰め込んでたら今は表現(表現技術ではない表現)に力を割けないのも無理はないとも思う。彼の表現を評価するのは彼がプロになってからがフェアなのかもしれない。
ただFaOIとか観るとロックは踊れる子かもしれない。バルデやジェイソンに引けをとらないと思いました。
407.月見そばさん
>フィギュアの技術に美を感じ時に感動を覚えることは多々ありますがそれは芸術というよりスポーツとしてがほとんど。
もしよろしければ、「スポーツにおける感動」と「芸術における感動」との違いを教えて頂けませんか?私自身、そこを乖離することができず、「機能美の究極は芸術だ」と考えている状態です。「芸術の域」に達するためには何が必要だと思われますか?
よろしければご教授頂けますと幸いです。
再び、芸術の話になっているのですね!
私自身は、当初から「芸術」ということばの意味と使い方には、①ある定義の元に一定の社会、あるいはフィギュアならフィギュアの世界で、万人の共通認識に基づくもの、②個人的感覚または個人の定義に基づく「芸術」または「芸術性」とその人が呼ぶもの2種類がある、2種類があってもよい、という考え方です。
ですから、①で考えた場合、社会一般的に競技のフィギュアは「スポーツ」として認識されているもので「芸術」とは認定されていない。「芸術」とは呼べない。従って、フィギュアのプログラムに対しては、「芸術」ではなく、最大限でも「芸術性」(または「芸術的」)という言葉しか使えないだろうということは述べて来ました。
そして、もし競技フィギュアの評価であるPCS自体が「芸術性」を求めているものだとしたら、①の使われ方の意味において、PCSで高得点を取った選手のプロはやはりフィギュアにおいて「芸術性があるもの」と(個人感覚とは別に)認めなければならない、と考えられる。好きだろうが嫌いだろうが、「フィギュア」ではそれが芸術性が高いものなのだ、と。
しかしPCSが芸術性を評価するものでない、ということになればそれは言えないことになる。
だから、そこにこだわりました。しかし、現在のPCSにははっきりとart/artistic とは明記されていない。ところが一方、北京オリンピック後のルール改正案などをめぐっては、PCSは芸術性を評価しているものである、ということが当たり前のように前提となって話が進んでいる。
そのあたりが非常に判断に困るところです。
一方、「ことば」というものは、使う人の状況や立場によって異なる意味を持つ、ということもこちらで具体例をあげて話に出して来ましたが、「芸術」ということばも、これだけ世の中で使われていることを考えると、皆が皆同じ意味で使っているとは思えません。社会で認識されている定義などとは違って非常にそのことばの意味(定義)が曖昧になって来ます。
しかし、その人にとって「芸術」と感じるもの、考えるものはその人にとってやはり「芸術」であるのだろうし、「芸術」と感じないものはやはり「芸術」ではない・・・個人レベルでは私はそれでよいと思っています。
一体誰が日常的に使われるひとつひとつのことばを「こういう意味で使え」などと言えるのか?(あまりにも意味をなさなくなる場合は別です。)
408.で月見そばさんが仰る
>芸術の総論では「工業製品と芸術作品の違い」「技術と芸術の違い」「技術者(職人)と芸術家の違い」が過去から散々論ぜられ決着がついています。
こちらの「芸術の総論」とは、どちらでこのようにはっきりと決着がつけられているのでしょうか。
その「決着」のソースを教えていただければ嬉しいです。
「芸術の定義」やまた「芸術」として扱う分野については、私が調べたところによれば、それに携わる機関や学者などによっても異なっているのですが、現在世界で総意とされる「芸術」というものがある、ということですね?
それはどこでどう定義されているのか、「技術者と芸術家の違い」はどうことばで規定されているのかお教え願えれば嬉しいです。
>「表現者と鑑賞者では芸術活動の主体は表現者の方にある」こと
こちらもソースはどこにありますでしょうか?
非常に興味深いので教えていただければと思います。
あと、議論の途中で各国の芸術院の紹介の中で、フランスの芸術院では「建築」が古くから「芸術」と認定されています。
建築は本来、住む、とかそこで何かが行われることを目的としたものであり、その「機能」を備えています。
機能美と無関係ではあり得ないと思うのですが、そのあたりは皆様はどうお考えになりますか?
407月見そばさん、
〉「芸術という言葉には本来個人感覚ではなく社会的意味が存在するはずなのにそんなことどーでもよくつい使っちゃう人が多いのでは?」
自分は確かにこう言ったけどこれはそうしてる人逹を非難するために言ったのではないすよ。
あと自分が月見そばさんに聞きたかったのはそもそもの心の在りようの話はどこに行っちゃったのかと思って。
あと月見そばさんのコメ読んでてよくわかんないのは貴方はどこかで定義された芸術というものがなけりゃ芸術性とかを自分の感覚で感じることはないんですかね?そう感じたプロがあるって言ってたけどそれは一体何なの?何か言ってることが時々自分には理解できなくなるところあるよ。
自分などから見ると悪いが貴方も、勝手に自分の感覚でスポーツのフィギュアにやたら芸術性とか主張する人も頑固さではあまり変わらないように見えるんだけど。ハッキリ言ってすまないが。
自分は特に羽生などによって今の男子シングルのフィギュアをスポーツとして見られて楽しくてしょうがないんだけどだからと言って羽生の演技に芸術性を感じるって人がいても別にそれはいいじゃんねって思うけどね。所詮個人の感覚や好みで言ってるんだろうから。
いいじゃんね、じゃなかった、いいんじゃね、でした。
どーでもいーか?
凄い議論の中コメントするのはあまりスケートに詳しくは無い私がするのも何ですが、月見そばさんはセイメイは芸術を感じ無いと言う事なんですね。
それは個人の見解なので納得しますが、セイメイは芸術を捨てたと仰ってますがそうは思えません。
それはこちらで納得行かないのか何度も仰ってます。
月見そばさんがそう思ってるのなら、それでいいのではと思います。なぜしつこく芸術について突き詰めて行く失要があるのかな疑問です。
ここまで何を納得したいのか、私などは長文過ぎてわかりませんわ。
羽生選手は偉大な選手です私などは芸術も表現力も技術力も備わっている選手だとおもいます。
それよりも同じ様な曲でないと勝負出来無い選手も居るし、それに比べたら羽生選手などは何でも熟せる唯一の選手だとおもいますが。
ある選手はショーは無理だと分かった選手もいますし
これは余談でした。
月見そばさん、
補足します。「芸術とは論じるモノではなく、感じるモノ!」と、あなたへコメントしたのは、あなたに苦言を呈したかったわけではありません。むしろ、その逆で、むやみに他人の挑発(反論)にのって、自ら墓穴を掘らないで欲しいと思ったからです。
それから芸術において、「他人の意見(感覚)に対して、そうは思わない」などと言うのは、これほど不快なものはないとは、あなたへ(観戦者さん?)のコメントの中で、確かに使用しましたが、あなたに対して言ったわけではありません。なるべく簡潔に書こうと思い、説明が不足したことを、お詫び致します。
あなたのコメントは、ライトファンの私からみても、共感できるポイント(前半部)が多々ありましたので、あなたの「芸術は捨てた!」(実際に、捨てたかどうかは別にして、SEIMEIがB級音楽であることは間違いありません!笑)に対する、桔梗さんのてんこもり(長文)のわりに中味(定義)のない反論に対して、あなたがお怒りになるのは最もであると感じ、コメントしたのです。
月見そばさんは、「まっすぐな人」です。あなたのような人に、このサイトが「ユヅファンの総意」であるなどと、勘違いして欲しくはありません。社会的な芸術の定義など「雲の上の人(権威)」にお任せして、ご自分の感性をどうか大切にしてなさって下さい。
あなたの思考の混乱を招いてしまったことを、重ね重ね、お詫び致します。
ちょっとすいません、さん
>ある選手はショーは無理だとわかった選手もいますし、
すいませーん、受けましたー!!
「ある選手」とは、いったい・・・
こっちの方がモヤモヤします(笑)
訂正させて頂きます。
>失要じゃ無くて必要です。
それから羽生選手は偉大選手からこれは余談でしたまでは、あくまで私個人見解なので月見そばさんの意見を否定するものでは無い事を付け加えておきます。
芸術についての激論は色々な考えがあって普通ですし誰が正しいとかも無いですし、個人が感じる事しか言いようが無い気がします。
フィギュアは競技の時は勿論ノーミスで来た場合とジャンプの失敗したした時とでは、全然感じ方も違って来るでしょうし誰のプログラムに芸術を感じるのかは自分自身だと思いますし答えなんて無いいんじや無いでしょうか。って私は思ってます。
月見そばさん、
訂正です。
ご自分の感性をどうか大切にしてなさって下さい。→
ご自分の感性をどうか大切なさって下さい。
それから余談ですが、今季「ローザンヌ国際バレエコンクールの覇者 ミゲーレ・エスポジト君 W金賞受賞」、すばらしいと思いました。
「美」を目の前にして、「ワクワク、鳥肌~!!」、ユヅ以来の衝撃です。バレエ界に新たな革命を起こしそうな予感・・・。
私はクラッシックも聴きますが
私はセイメイの音楽は素晴らしいと思ってますよ
和のテイストがあるし何かこころがザワザワぞくぞくして
前向きな力を与えてくれる音楽です
なんかBBと言っている人がいるので。
何かちょっとズレちゃったかなと感じるんだけど、社会的な意味で使われる芸術には個人感覚のとは違う意味、正解に近いものはやっぱりあって自分を離れてそれを考えてみるのもまた大事だとは自分は思う。
欧州では芸術というものが根強く浸透してるんだろうし日本の芸術観とはまた違うかも?グローバル社会なんて言っても何百年もの間に培われてきたものはそう簡単に融合は難しいと思う。徐々に融合はしてくだろうけど。
そういった意味で月見そばさんやここで議論してきてる他の人達みたいにそれを追求してみるということも自分はいいことだと思うし、ただ個人感覚で好きでいいじゃんとかいうことを自分は言ってはいない。
最終的にそういうのとは別にそれぞれの芸術観みたいなのはお互いに大切にすればいいと思うだけ。って言うかそこはどうやっても交わらないことも多いのでは?
411桔梗さん
機能美である建築が芸術か?という疑問をお持ちですが、中世において西洋芸術を牽引してきたのは教会建築であり、もともと絵画も教会の壁面に描かれた宗教画が後に独立したものですが、ゴシック建築は機能美だけでない装飾美であふれています。なので、歴史的にも、芸術と切っても切りはなせない(芸術そのもの)存在なのではないでしょうか?
ついでに、フィギュアでいうと、ダンスやバレエ的な上半身の使い方などは、装飾美なのかなと思います。
アルトさん、
私はセイメイの編曲自体は、たいへん素晴らしいと思ってますが、どうしても「シンセ音」や「太鼓部分」のリズムを、受け入れることができません。な~んか「志村けんさんのバカ殿」がちらついてしまって、そこがどうにも残念なところです。(アルトさんは、ちらついたりしませんか?)
どうせ再演するなら、いっそのことプルシェンコさんのEX「キン肉マン」みたいに自虐プロを作ってもらったほうが良かったかな・・・別スレでも書きましたが、セイメイ音楽なら、衣装は殿~の「重村公」。頭部は、もちろんユヅにおまかせです!
それなら、前向きな力を与えてくれる音楽になりそうです♡
ダンスのテクニックやバレエ的な身のこなしは、羽生選手に関しては、そんなに必要に感じない。
彼の身のこなしは今のままでも充分美しいから。
かえってバレエ的動きになったら皆と同じ動きになってしまいそうで残念だしね。今のまま羽生感覚で演技して欲しいなあ。
421. あおらさん
>機能美である建築が芸術か?という疑問をお持ちですが・・
いえいえ私はそういう疑問は持っていません。
だってフランスの芸術院では、建築は「芸術」の一分野で、日本の建築家も会員に選ばれているのですから、社会的にも芸術だし、美しい建物には私自身も芸術性のようなものを十分感じます。
むしろ、あおらさんがおっしゃるように建築には西洋では機能美に装飾美が施されて来た長い歴史があるし、また教会などはやはり宗教と結びついて神の世界に人を近づける、という意味でそこには精神性も大きく関わって来たのではないかと思います。
でも、建築物はただの観賞用の作品ではなく、やはり機能を兼ね備えているんですよね。
スケートの独自の技術はそれ自体、何かの機能があるのかどうかはわかりませんので、機能美ともまた呼ぶのがふさわしいか、はちょっとわかりませんが、ひたすら技術を追求していったらそこに「美」が生まれた、という意味では確かに機能美とその点において類似性は感じます。
あおらさんがおっしゃるように、もし振り付けなどに見られる上半身の使い方などが装飾美の一種と考えられるなら、それも手伝ってフィギュアのプロも建築のように、時を経て社会で芸術と認定される日が来ないとも限らない、と個人的には実は思っています。
ただ、競技フィギュアの場合は、やはりスポーツとして点数で競うとなれば「客観性」は限りなく必要だと思うし、それなりの制約もあると思うんです。せっかくここまで来たのですし、スポーツとしての面白さは追求して欲しいと個人的には思います。
なので、私は実は競技から離れたプロスケーターによる演技は将来的に、時間はかかるかもしれないし、また実際に携わるスケーターがどんな作品を作っていけるかにもよるところは大きいとは思いますが、もしかしたら芸術として認定されるかもしれない、とは密かに思っています。
スポーツから発生した芸術など今はあまり考えられないかもしれませんが、未来のことはわかりませんよね。
映画だってすでに映像芸術と認定されてる国があるのですから。
ジャンプなど特殊技術は現役の若い選手の方が得意で、年齢と共に難しくなっていきますが、表現自体、またスケーティング全体の技術などはある程度の年齢までは上がって行きそうです。
だから前にもちょっと触れたように、ランビエールさんとか町田さん、そして高橋さんなどにはそういう野心を捨てずに頑張って頂けたらなあ、などと願っています。(ファンの野心?)
荒川さんなども、金メダルを取った当時の演技よりもその後のショーでどんどん表現力、またその幅も広げている感じを受けています。
今年のジェラシーなんて、新境地を見た思いでしたし、お約束のイナバウアーも、あのプロの中では同じようにやっていても全く印象が違い、びっくりしました。
荒川さんはショーでほとんど転んだりしないのは凄いですね。そういう点、やはりオリンピックチャンピオンになる器の人だったのかも、と感じたりもして。
どうなのでしょうね、ショーのプロではもちろんクワドが入ったりすれば豪快でカッコいいですが、3回転でも(場合によっては2回転とか、ジャンプなしでも)作品として良ければ十分って感じが私はするんですね。2-3回転だって実はすでにフィギュアでしかできない独自の高度技術なのだし、スケートの技術はジャンプだけではないし。
平昌~北京後のルール改正は、そういうことも少し狙っているのかな、と思いつつ、スポーツとして見た場合は「人間の限界に挑戦」という観点から考えた場合、また、すでに5種類のクワドが試合で使われ、4Aだってもしかしたらもうすぐ、と思うと、ここまで頑張ってきた選手たちのモチベーションを下げることにならないかな、とそのあたりはやや懸念されますし、そうなったら個人的にはとても残念。怪我はもちろん心配ではありますが・・。
羽生選手に関しては、現役中はやはり勝って欲しい、勝たせてあげたい(・・って私が勝たせてあげるわけじゃ全然ないんですが)こともありますし、スケートの一つ一つの技術を徹底的に追求してその結果、彼らしい、今の彼にしか生み出せないようなプロの世界を見せていただければ私は十分かも。
もし将来プロスケーターになって、その時にご本人が、表現の幅を広げるためにバレエをやりたい、などとなるならそれは良いのではないでしょうか。あくまでもご本人次第で。(今のところバレエをやってる羽生選手が思い浮かびません・・フィギュアでは禁止の白タイツ・・・ぐふ♡)
連投すみません。
409. 月見そばさんの
>羽生君は踊れる子じゃない。音があってりゃいいってもんじゃないんだよなあ。高橋選手や宇野君は踊れる子。
こちらわからないようで、ちょっとどういうことを意味してらっしゃるかわかるような気もするんです。
必ずしもどちらが優れている、ということでもなくて。
羽生選手は、音にまさにジャストミートでリズムの取り方が表ノリ、という感じであまり裏拍を取らないように感じます。(違うかな?)
だから白人系(ちょっとヘンな言い方ですが)8ビートのロックなんかはすごく見てて気持ちよくカッコいい!
高橋さんや宇野選手のリズムの取り方とはちょっと違いますよね。
彼らは・・なんと言うか、ジャストミートとそうでない部分を巧みに使い分けていて、タメとか実にうまいのではないでしょうか?
Let’s Go Crazy は、独自のプリンスになっていて、私はすごく面白かったし、羽生選手のプロとしては好きなのですが、高橋さんや宇野選手がやったら、ちょっと羽生選手とは異質のものになるように思います。
あれは羽生選手、頑張っていましたが、実はそれほどやりやすいノリやすい曲でもなかったのかも。
何となくプリンスの強烈な個性と羽生選手の個性がぶつかってしまったようなところもあったのではないかと感じました。ジャンプのタイミングとかとりにくかったかも。
でも・・ショーではまた見たいです!
ボーカル入りの曲はイメージが限定されやすく、その点実はオリジナルを誰も知らないクラシック曲とかは、却って自由度が高いのかもしれない、と思います。演奏パターンも星の数ほどありますし。
桔梗さん
先の私のコメントの補足です。
西洋建築が歴史的に芸術であったとしましたが、現代建築はもちろんデザインと位置づけられています。
建築とフィギュアってかけ離れているようで、実は土台(技術)がしっかりしていないと崩れてしまう、ごまかしがきかないところが似ていますね。
そのうえで、必要があれば装飾をほどこすことで豊かな表現もできるけど、技術を極めることで、シンプルな要素だけでも十分成り立つところも。
アイスショーは演出家が芸術志向でない限り、芸術には成り得ないような気がしますが、特に日本でやってるアイスショーって細切れ、各ゲストスケーターが持ちネタを滑るだけで、全体の繫がりも感じられず、中途半端なエンタメ止まり。
もちろん、個々のスケーターの演技自体には芸術といってもいいのはありますが、(といってもこれも個人の感覚です)
引退したスケーターが集まって、採算度外視して、ある程度時間をかけて一緒に作れば、面白いものは出来そうですね。(ランビエールのアイスショーみたいなやつ)
見てないけど、歌舞伎とフィギュアの合体も、エンタメながら、その斬新なアイデア事体が芸術なのではないでしょうか?
>何となくプリンスの強烈な個性と羽生選手の個性がぶつかってしまったようなところもあったのではないかと感じました。
まさしく、それなんです!ずっと引っかかってたのは!
軽めのB級サントラ位の方が、キャラクターとしての羽生色を出しやすいので、SEIMEIはよい選択だとおもいます。
芸術論は機能美とか装飾美など、もう美大かアートの専門学校に行かないと分からないような専門レベルで、
とことん議論できる方々が羨ましくも感じますね。
また、409.月見そばさんのように、踊れる又は踊れない選手・・というコメも時々見かけ
ますね。
自分は踊りにも詳しくないので、その言葉をストレートに受け取るとモヤモヤしますし、でも高橋さんが踊れるというのは感覚的に分かります。
羽生選手は踊れない訳ではない。EXであれだけ踊れるのだからいいじゃん!
とも思っていましたので。
425.桔梗さんは分かりやすく分析していると思いました。
勿論これも考え方というか感じ方でしょうか?人それぞれだと思いますので・・。いろんな意見の人がいるでしょう。
考えてみたら自分は音楽にも踊りにも芸術にも詳しくなくバレエやオペラなど本物を観たことがありませんし、じゃあ一体何を楽しみに昔からフィギュアを観ているんだっけ?・・と、ふと思いました。
自分はフィギュアをスポーツとして観ている側面が強いとこちらのコメント欄を読みながら改めて感じました。
正真正銘ライトファンはお茶の間から応援してます。
オータムはもう来週だね。シーズン前哨戦、新SEIMEIを楽しみにしてます。
羽生選手が踊れないってことはないですよ
アイスショーのオープニングを見ていてもジェフリーと二人で集団を引っ張って踊ってました
あれで下手だったら目も当てられない
ただ高橋さんとは違った個性だとは思います
それを踊れないと決めつけて叩きたい人はいますね
あとは踊る競技プログラムがあまりないのだと思います
SEIMEIは踊るよりも舞うプログラム
いつかタンゴとかフラメンコで滑る羽生選手も見たいです
おお~ タンゴ!フラメンコ!いいね、いいねえ~
羽生くんの踊れるプロ見たい!
想像してたら、急にEXが気になりはじめたぁ
どんなのかな? 楽しみ♡
羽生はとにかく体のキレが尋常じゃないな。あのキレ方は人間離れしてるわ。アイスショーの郡舞なんか見るとこのキレがあってこそスポーツの世界王者なんかになれるんだなとつくづく思う。バラ1がああいう感じになるのは他の選手じゃ考えられない。SEIMEI よりバラ1の方が実は羽生の他の選手との違いがよく分かるように自分は思う。
羽生はネットリと濃厚なダンスは想像するとやや気持ち悪い。ごめん。古典的な男臭い色気はまだだな。
ラテン系はやるとしてもかなり先でいいんじゃないかな?自分はむしろバリバリの前衛系なんか見てみたい。ストーリーなんかまるでないやつ。上手いんじゃないかな?
430で前衛系って書いたけど音楽のことで、舞踏の方の前衛という意味ではありません。舞踏の前衛はおそらくバレエ他ダンスの徹底した基礎がないとできないと思う。前衛的な音楽と今の羽生のスケート技術を合わせたものを見てみたいという意味。
前衛音楽もいいけど、ときどき羽生君に既成の音楽はいらないんじゃないの?って思う時があります。
効果音程度で、シューッとか、シュパッとか、人間じゃない無機質なキャラクターとか似合いそう。
競技では無理だけど、羽生君の動きに合わせて音を出してもらうとかも見てみたい。
magrittemariさん、「もしよろしければ」ということは答えなくてもいいってことですよね。逆に質問です。1つ気になっているのですが、あなたの言う芸術の定義「芸術とは表現者と鑑賞者が相互に作用し合うことなどで精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」と「芸術とは技術の機能美の究極」この2つはあなたの中で整合性が取れているのですか?
ついでに。たまたま建築の話が出ていますが、例えばサクラダファミリアが芸術ならばそれって機能美の究極でしょうか?建築で機能美といったら工場プラントとかカプセルホテルかもしれませんよ。機能美とは辞書とかでは「建築・工業製品などで余分な装飾を排して無駄のない形態・構造を追求した結果、自然に現れる美しさ」「実用品として作られたものが、その機能を十分発揮することで発言する美」とあります。ある特定の目的のために作られ使われるのが工業製品や実用品でありその機能追及の結果生まれる美が機能美ならば、スポーツである競技フィギュアの目的は勝つことで、その目的のためにジャンプがあり、その目的のためにジャンプの正確なエッジ、高さ、幅、回転速度、着氷などについて技術を究極まで追求した結果自然に生まれれた美もまた機能美と言えよう。ならば、ジャンプの機能美はサクラダファミリアではなく工場プラントの美、芸術ではなくスポーツとしての美ではないか?と思います。
桔梗さん、「言葉というものは、使う人の状況や立場によって異なる意味を持つ(中略)一体誰が日常的に使われる1つ1つの言葉を「こういう意味で使え」などと言えるのか?」あなたがそう主張するならば、あなた自身がまずそれを厳守して他人の言葉のどんな使い方に対しても「疑問があります」等あらゆる反論を一切どこでも誰に対しても二度と言わないこと。以上。
433. 月見そばさん
おことばですが、疑問を持つ、ということと否定をする、ということはまったく別のことですね。
私自身、他の方のコメントには同意をすることもあれば反論することもありますし、あなたはじめ皆様もそういうことをしながら議論が進んだり、深まったり、自分の考え方が広がったりしていくものだと考えておりますので、あなたにそれを私個人に対して、どうこう言われることではありません。
ことばというものが、人によって状況や立場によって違う意味を持つことがある、だからと言ってどこでも誰に対しても反論をしてはいけない、などということにはなりません。どういう論理ですか?
むしろ、ことばが人によって違う意味を持つこともあるから、疑問をもつ、とか私はそう思わない・・そういういうものが出てくる場合もある、ということではないかと思いますが。
議論を進めていくうちにことばの使い方、また内容面でもお互いの誤解が解ける、という可能性もあるのであって。
好みの問題などでは永遠に平行線、ということもまたあると思います。
あることばを、ほぼ同じ意味で使っている場合でも、異論というものは出てくるものだと思います。
全面的に他の人に同意、全面的に他の人を否定・・・そんなことは普通は人間ならありえないと思え、だからこそ話題も広がり、面白いのではないでしょうか?
以上。
433.月見そばさん
私は「芸術とは技術の機能美の究極」とは言ってません。「技術の機能美の究極」が「芸術の一部」だと言っているだけです。例えば椅子の機能美を追求した場合、それが芸術になることもあるようです。
http://www.brunchone.com/brunch-yokohama/blog/20160208161359/
なお、カプセルホテルは私は機能美の追求とは思いません。機能を追求するのは分かりますが、「美」を追求する、といういう面に関して疑問を生じるからです。
フィギュアに関しての機能美は、自分はジャンプなどの技術を極限まで極めていったとき、そこに芸術性が見られるのではないか、という意味で使っていました。ジャンプの美しさを機能美と言っていいのか、その言葉の使い方がおかしい、という点があったらそこは直していきたいですが、本質的にはそういうことです。
月見そばさんに質問です。是非答えて頂けたら幸いです。
>芸術ではなくスポーツとしての美
と
>芸術における美
の違いを教えて下さい。
社会的に芸術と呼ばれるもののから生まれる美は芸術としての美、スポーツと呼ばれるものから生まれる美はスポーツとしての美、とそのカテゴリーの違いからすべて分けられていますか?カテゴリーの境界が交差することはないのでしょうか?その点に私は興味があります。
追伸:
質問するのは純粋に月見そばさんのご意見をお聞きしたいからです。意地悪な意味合いは全くありませんので、答えて頂けたら幸いです。
建築とフィギュアスケートとの類似性については、土台(技術)に支えられる機能美に装飾美(上半身や手の使い方など所謂振り付けの細かい部分?)が加わってるということがここで出てきた意見であり、そういう意味ではフィギュアのプロはまさしくサグラダファミリア的なものということじゃないのかな?自分はフィギュアでの音楽も一つの装飾に当たるように思える。
ジャンプのような一つ一つの技術には確かに装飾美はあまりないかもしれないけどプロ全体の美は工場プラントだとかカプセルホテルの美?とはやっぱり違うのではないか?ジャンプにしたって例えばタノなんかは加点されるという意味では機能かもしれないが、あれを技術に装飾が加わったものと見ることだってできるかもしれない。
フィギュアは確かにスポーツだと自分も思うが、ただ走る、泳ぐ、跳ぶ、球をゴールに入れるなんていうスポーツと求められてるものが同じとは思えないな。それらだって勝つという目的は全く同じではあるが勝つために必要な機能はフィギュアは少し違うだろう。
フィギュアは技術だけではなくて装飾的な美しさを伴わずには勝てない部分があるということであり、そこは他のスポーツとは単純に一緒にすることはできないのでは?
つまり羽生なら羽生が勝つことを目的とすると言うことには技術と装飾双方の完成度をもって勝つという意味が含まれると思う。まさにこの競技が持つ特殊性であり、だからこそ芸術に繋がるものを全否定するのは難しいということなのかもしれない。
サグラダファミリアから装飾美を取り除いたようなプロが果たしてフィギュアで高く評価されて勝てるだろうか?装飾美も点数化されてる変種のスポーツと考えるしかないかも。
西洋社会で建築を芸術とすることとフィギュアでの芸術性、そこにはある類似性が感じられなくはない。ここでの意見を読んでそう思った。
その類似性を考えると、フィギュアは芸術ではないが芸術と全く切り離すのもまた難しい変わったスポーツということなんだろう。
月見そばさん、何故リレハンメルのロックには芸術性を感じなかったのに、長野のロックには芸術性を感じたのかについて考えてみました。
自分でもこれが正解とは言えないですが、可能性としては、受け取る自分側の準備不足(つまりロックで踊るアイスダンスに芸術性を感じるのは難しいというバイアスのかかった思い込みが強過ぎた)またはちょっとした好みによるもの(振り付けがそこまで好みではなかった)という自分側の原因が一つ。
他の可能性としては、4年経ってさらに彼らの技術力が磨かれ、表現の面でもより成熟していた、ということも考えられます。
で、以前に彼らの究極の技術力に感じた芸術性は機能美とは違うと思うと書きましたが、そのことも考えてみました。
本来、スケートが追求する機能とは「(より効率よく)滑ること」であって、フィギュアで用いられるような細かいターンやステップなんて別にいらないわけです。ジャンプもスピンもなくていい。
でもその部分の技術を競っているのが競技フィギュアスケート。
そしてその技術をただ見せるのではなく(コンパルソリがもうないですものね)、何かを表現する為に使っている。
音楽や振り付けを用いて。
ただ、より効率よくジャンプを跳ぶとか、より効率よくターンを踏む、ということが結局は美に繋がる部分はあって、そこが機能美と似ているのかなと。
競技フィギュアの技術が追求するのは勝負でもあるけれど、表現でもあるので技術を突き詰めた先に芸術性が生まれてきてもおかしくはないのではないでしょうか。
というのが今のところの考えです。
トップのジュニア女子とか、ジャンプ技術はシニア以上、まさに機能美の極地まで行っていて、バレエの素養による装飾美もそこそこありながらも、やはり芸術性は感じないのですね。
言われるまま振り付けを完璧にこなしてるだけで、まだ内側の心がついていない状態というか。
ザグラダファミリアも機能美と装飾美を兼ね備えている美しい造形だけれども、それだけではない装飾の一つ一つに意味があり、尚且つ、全体が有機的にほころびなくつながっているところが芸術たる所以かもしれません。
装飾美で芸術性を感じるのは、今のところ現役男子ではジェイソンぐらいでしょうか?
よくよく考えれば、羽生くんがジャンプの前後に難しいステップなどを入れるのも表現のうちで、一種の装飾美なのかもしれませんね。とんでもない技術を伴うだれにも真似できないような。
438.あおらさんのご意見、興味深く読ませて頂きました。確かにジャンプの機能美の極地まで行ったとしても、それ自体だけからは芸術性が見いだせない、ということはありそうですね。競技フィギュアでの芸術性を考えるとすれば、プログラム全体として観た時にどうか、と考える方がいいのかもしれない、とも思いました。私は個々の機能美に拘り過ぎていたかもしれません。演技がフィギュアで言ういわゆる機能美と装飾美を兼ね備え、確固たる技術に裏打ちされたものであり、その(技術を含めた)表現が人の心を打つほど深いものであるとき、そこに芸術性が現れるものなのかもしれない、と改めて思いました。
羽生選手の今季のプログラムが発表され、いよいよ初戦が始まるこれまでの間、こちらで芸術とはなにか?フィギュアスケートの芸術性とはなにか?SEIMEIに芸術性はあるか?・・等々についていろいろな方々のご意見を伺うことができ、自分でも考えることができて(答は簡単に出なくても)とても嬉しく感じています。
フィギュアのプログラムは、建築の土台のように、ひとつひとつのスケートの高い技術から生まれる機能美、またそれに加えて純粋なスケート技術とは少し異なる装飾的なものから生まれる装飾美に支えられて成り立つのではないか、という考え方に私はとてもしっくり来ましたが、それらはそれぞれ単体として切り離せるようなものでなく、結局全体としてひとつにまとまった時「作品」としてどう見えるか、ということが芸術性を考える上でも大事、ということなのでしょうね。
439. magrittemari さんも仰るように。
技術の機能美に装飾美がプラスされて、しかもそれらが、そのスケーターという一人の人間によって演じられることにより、心や精神性などその内面も含め、すべてが有機的に絡み合ってその選手独自の作品が生まれる。
そして、見ている人との間に何らかの呼応、相互作用が生じた時に魂が震えるような感動が生まれ、プログラムという作品に「芸術性」をも感じるものなのかもしれません。
それが、社会的な意味での「芸術」と重なることも、ずれることもあり得るとしても。
サグラダファミリア、という西洋の具体的な装飾的建造物の例が出ましたが、ヨーロッパの歴史的建造物などを思い浮かべる時、現在の競技スケーターの演技の中で一番類似性のようなものを感じさせてくれるのは、私もジェイソン選手のプロかも・・と感じます。
非常にざっくりした個人感覚的な言い方ではありますが、西洋建築の美しさとジェイソン選手のプロはどこか重なりますが、羽生選手のプロとはあまり重なりません。
重なると感じる方もいらっしゃるかもしれませんが。
しかし羽生選手の演技には、個人的にはそれ以上の強いインパクトやジェイソン選手の演技とは違う強烈な美しさを私は感じます。
もしかしたらそれは、西洋建築的な美と言うよりは、より日本建築の美に近いようなものなのでしょうか?
また、羽生選手のジャンプやスピンなどは、それが芸術性とどう結びつくか、あるいは結びつかないのか、はわかりませんが、やはり単体でも十分に感動する美があることも私は確かだと思ってはいます。
羽生選手の初戦がいよいよ始まりますが、全力応援しながら、また新たなバラード第一番や SEIMEI をどのように演じてくださり、自分の目にどんな風に映るか本当に楽しみになって来ています。
もちろん、スポーツなので、全てのタイトルを勝ち取っては欲しいです!ファイト!!
ちょっと心配だな
羽生結弦が膝痛でプログラム修正
http://yuzuorabu.blog.fc2.com/img/DKOKKoEUQAUcNak.jpg/
441. 壱川蛇蔵さん 情報ありがとうございますm(_ _)m
ネペラ杯とJGPのライストの合間にふと立ち寄ったら、心配なニュース…(> <)
初戦のCSはMAXの構成でなくとも良いので、どうか後々まで響かないよう 無理せずお願いしたいです。
今季 オーサーコーチの手綱さばき(^^;)に、全幅の信頼を寄せています。
雑誌のインタビューなどを読む限り、オーサーコーチはじめコーチ陣と、よりオープンにコミュニケーションがとれるようになっている印象を受けています。
オーサーコーチが、Yuzuru が自分から話しかけてくれるようになったことがとても嬉しい、ということを語っていらして、何だかとても嬉しく心強く感じました。
怪我に負けんな、羽生選手!
構成を落とす、と言ってもそもそもが高過ぎなので、一般的に落とす、というレベルではなさそう・・?!
勝てます!!
頑張れ!
いよいよオータム。そろそろここもお開きでしょうか。
ソルトさん、建築とフィギュアとの類似性については「建築は芸術と認定されている」「建築は機能を備えている」ならば「機能美を有する競技フィギュアも芸術になり得る」という三段論法もどきの話が最初。
競技フィギュアをサグラダファミリアに例えるのは流石に言い過ぎ、いくら「的」が付いていても。どんな工業製品・実用品だって一般的には装飾(デザイン)は欠かせないもの。建売住宅にだって装飾はある。それと一緒で装飾があるからといっても芸術とは限らない。競技フィギュアに装飾があっても大体そんな感じだからこそいわゆる「なんちゃって芸術」という話も出てくるのでしょう。いいとこデザイナーズマンション。あなたの言うそういう意味では。
建築において機能が「住むため」なら装飾は「美のため」少なくとも「住むため」じゃない。あなたの話では競技フィギュアにおいては機能が「勝つため」で装飾も「勝つため」。だから芸術の域に達しないのかもしれない。
magrittemariさん、「芸術とは技術の機能美の究極」は文の流れ上「技術の機能美の究極は芸術」を倒置しただけです。後者は324、386、410であなたが繰り返し言ってましたよね?「芸術の一部」なんて言ってませんよね?
「無駄な装飾を排して機能の追求の結果自然に生まれるのが機能美」です。「機能美を追及する」はおかしいです。機能の追求はわかりますが機能美は追及するものじゃないと思います。カプセルホテルは機能の追求です。機能美を感じるかどうかは自由ですが「美を追求していない」という主張はおかしいです。あなたは機能美という言葉の使い方を間違えていると思います。
「スポーツとしての美」は既に説明が済んでいますが機能美の意味を正しく理解していないと伝わらないかと思っています。競技フィギュアにおける「勝ちたい」と「表現したい・伝えたい」は10:0ではないと思っています。なので交差していると思います。
「答えは選手の演技と結果にある」(それを言っちゃおしまい、ここの全ての意見交換は全て無意味と言い放つのと同じ)と言われつつも続けてきましたが、いよいよその答えの一部が観られます。
羽生君は戦略上、メドの様に圧倒的な強さを見せつけたいのか?再演がどう評価されるか確認したいのか?宇野君の様に新ジャンプ新構成のプレッシャーを与えたいのか?
ネイサンみたいに徐々に調整でもいいと思いますけどね。結果何が正しかったのか?なんて誰にもわかりません。羽生君とスタッフが決めたことなら私はそれでいいです。
「怪我に負けんな!」なんて口が裂けても言えません。怪我で構成を落としてもここで負けても羽生君らが決めたことでやったなら私はそれでいいです。
OPイヤーは、日本人としてユヅの健闘を祈ってる。(今まで、本当にありがとう!!)
445.月見そばさん
「芸術とは技術の機能美の究極」と「技術の機能美の究極は芸術」は別だと思います。論理学でp→QとQ→pが異なることと一緒です。私は仰る通り、「技術の機能美の究極は芸術」と何回か言いましたがそれをp→Qに当てはめただけで、論理学的にはp→Qは「pはQの一部」と言っていることと同義と考えます。
機能美の追求はおかしい、とのご意見を頂きましたが、「機能美を追求する」という言葉自体はググったらすぐ出てきます。必ずしも間違えてはいないと考えていますが。ただ、月見そばさんの仰っりたいことは理解致しました。美は機能の追求によって後から出てくるものなので、それを追求するという言い方はおかしい、というご意見ですね。納得です。
競技フィギュアにおける美は芸術における美と交差しているとお考えであること、質問に答えて頂き、ありがとうございました。月見そばさんの中では交差していないのかな、と思っていたのですが、交差されているということですね。ということは、競技フィギュアにおける美において芸術における美と同様に感じられる面があるのですね。納得致しました。
>羽生君とスタッフが決めたことなら私はそれでいいです。
はい、私も同意です。
というか、スポーツ選手の決めることには、それしかなく、見ている方としては応援するのみです。
その上で、やはり試合に出るからには、
羽生選手、怪我に負けんな!
です。
出られない時でもそれは同じです。
スポーツの選手が試合をするなら、する前から負けてもいい、なんては私は言えません。
一つ一つの試合はきっとどれも皆違って、次につながる収穫があるのでしょうね。
その時その時の力が出し切れますように、頑張って下さい!
バラード1番も SEIMEIも本当に楽しみです。
ドキドキですが。
いよいよ羽生選手のプログラムが見れます。
本当に怪我との戦いなんですねスポーツ選手は種類が違えど、怪我無しの方が珍しいでしょうねきっと。
ビックリしたのはルッツも視野に入れてるとコーチが言ってました。
あー羽生選手の綺麗なルッツ決まったら鳥肌が立ちそうですね、今はオーサーコーチと羽生選手といい関係が築けてる様なので今の構成でいい演技が出来る事を祈ってます。
頑張れ羽生選手
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